「東京市史稿上水編」が「千川家文書」中、「千川上水給水区域」として引用しているものは、上水の給水範囲を大きく三口に分けています。(引用分中、「才」は水量の単位で、樋口1寸×1寸が1才のようです。)
一、・・・・村数合テ拾七ヶ村御領私領共・・・・此分水百四十八才。 |
- ・ 千川上水給水範囲(江戸市中) 同じ「東京市史稿上水編」にある「正徳末頃ノ上水図」を元にしています。ただ、正徳4年(1714年)閉鎖の小石川御殿は元図からは脱落しており、給水経路は不明ですが、当初の給水目的である綱吉御成の四か所の第一であるため、あえて付け加えました。
江戸市中の給水ルートは大きく二系統で、本郷四丁目と三丁目の間(現本郷3丁目交差点)で左折、湯島切通しを抜け下谷、浅草方面に向かうものと、そのまま直進して聖堂に向かい、神田川沿いに外神田から浅草御門に至るものです。天明元年(1781年)に再興された際の給水ルートも、やはりこの二系統ですが、前者は寛永寺門前まで、後者も浅草御門までということで、浅草方面は給水範囲外となっています。これは「千川上水・用水と江戸・武蔵野 / 第11章 宝暦・天明期の千川上水再興運動」によると、この地域が、前回廃止以降の掘り抜き井戸の普及、水銀支払いが負担となることを理由に、上水再興に消極的だったことが関係しているようで、例えば浅草寺は安永4年(1775年)という再興計画の早い段階で、給水範囲から除外されています。このように、給水範囲が当初予定ほどには広がらず、また消極的な町に対し水銀の軽減措置が取られたこともあり、結局、初期投資分も回収できないまま、わずか6年で上水再興はとん挫することになります。
- ・ 本郷3丁目交差点 本郷通りを直進すると1000mほどで聖堂裏、そこから浅草門まで2kmほどです。一方、左折して春日通りを東に向かうと、700mで湯島天神下の切通しを抜け、浅草寺まではさらに3kmほどあります。