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千川上水給水範囲

2015-10-24 06:57:20 | 千川用水6

 「東京市史稿上水編」が「千川家文書」中、「千川上水給水区域」として引用しているものは、上水の給水範囲を大きく三口に分けています。(引用分中、「才」は水量の単位で、樋口1寸×1寸が1才のようです。)

 

 一、・・・・村数合テ拾七ヶ村御領私領共・・・・此分水百四十八才。
 一、小石川御殿御堀に相掛り候戸樋内法(壱尺弐寸と壱尺弐寸)此分水百四十四才。
 一、巣鴨溜メ堀より本郷四丁目迄大通町間凡五拾町程(壱尺弐寸と壱尺六寸)此分水百九拾弐才。
 一、右同所四丁目より浅草寺御殿迄町間凡参拾町余。此間町方御武家方寺社方共水御取被成候。
 一、右同所四丁目より湯島壱丁目之辻より藤堂和泉様御屋舗前通より松浦備前守様御屋舗前浅草猿屋町并瓦町浅草御門橋際迄町間凡参拾町余。此間御武家方町方共に、水相懸り申候。古来より水取候町方町ニ〆六拾町余。

 

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    ・ 千川上水給水範囲(江戸市中)  同じ「東京市史稿上水編」にある「正徳末頃ノ上水図」を元にしています。ただ、正徳4年(1714年)閉鎖の小石川御殿は元図からは脱落しており、給水経路は不明ですが、当初の給水目的である綱吉御成の四か所の第一であるため、あえて付け加えました。

 江戸市中の給水ルートは大きく二系統で、本郷四丁目と三丁目の間(現本郷3丁目交差点)で左折、湯島切通しを抜け下谷、浅草方面に向かうものと、そのまま直進して聖堂に向かい、神田川沿いに外神田から浅草御門に至るものです。天明元年(1781年)に再興された際の給水ルートも、やはりこの二系統ですが、前者は寛永寺門前まで、後者も浅草御門までということで、浅草方面は給水範囲外となっています。これは「千川上水・用水と江戸・武蔵野 / 第11章 宝暦・天明期の千川上水再興運動」によると、この地域が、前回廃止以降の掘り抜き井戸の普及、水銀支払いが負担となることを理由に、上水再興に消極的だったことが関係しているようで、例えば浅草寺は安永4年(1775年)という再興計画の早い段階で、給水範囲から除外されています。このように、給水範囲が当初予定ほどには広がらず、また消極的な町に対し水銀の軽減措置が取られたこともあり、結局、初期投資分も回収できないまま、わずか6年で上水再興はとん挫することになります。

 

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    ・ 本郷3丁目交差点  本郷通りを直進すると1000mほどで聖堂裏、そこから浅草門まで2kmほどです。一方、左折して春日通りを東に向かうと、700mで湯島天神下の切通しを抜け、浅草寺まではさらに3kmほどあります。