神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

明治の水路変更

2015-10-03 06:20:01 | 千川用水6

 明治17年(1884年)、下板橋宿から滝野川村にかけて、千川上水の水路変更が行われました。「従来之水路ニテハ流通不宜、殊ニ家屋下水等ニ接近、自然汚水混入シ霖雨等ニ際シテハ、別テ防クヘカラサルニ至リ・・・・」(「東京市史稿上水編」) 千川水道会社による上水再開時なので、中山道沿いの家屋下水と接していることが、衛生上特に問題視されていますが、中山道と千川上水を出来るだけ離し、水害対策の意味もあったものと思われます。なお、工事費用は印刷局抄紙部、千川水道会社及び東京府が負担しています。

 

Simoitam13

    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 下谷区」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で左上から時計回りに板橋、北、豊島区です。

 「近傍図」と、そのグレー枠の個所に該当する→ 「大正5年第一回修正」を見比べると、旧川越街道と交差するところ(平尾橋)が、クランクで平尾追分から離されたのが分かります。それ以降も中山道との距離が大きくなっており、明治17年の付替えの結果だと推測できます。板橋区教育委員会「いたばしの河川」に掲載された明治15年の水路図から計算すると、旧水路の平尾橋・平尾追分間はおよそ70m、現在確認できる新水路のおよそ半分です。ただ、千川上水と中山道が近距離を並行する弊害は、両者を数十メートル離した程度では除去されなかったようで、大正3年(1914年)には「高田間道ヨリ板橋駅停車場入口ニ至ル千川水路」を暗渠化し中山道の副道とする計画が、開渠の弊害を除去し合わせて交通渋滞を緩和する、一石二鳥の策として提出されます。その実現にはさらに十数年をようしますが、昭和初期の暗渠化についてはすでに述べました。

 

0707a

    ・ 千川上水跡  新水路は右折、左折のクランクで旧川越街道を越えますが、越えた後左折するところで、左手は板橋郵便局です。平尾橋は撮影地点のやや後方にあり、現中山道の開通によってその場所の特定は困難です。

 <平尾橋>  千川上水が川越街道を再び越えるところに架かっていた平尾橋ですが、「千川素堀筋普請所積見分」には「川越道 石橋 巾七尺渡壱間」と書かれています。千川家の負担する七橋の最後でもあり、明治18年(1885年)の「私費負担橋梁調書」に、「同郡板橋村字平尾川越往還ニ架ス 一 石橋 長サ八尺巾壱丈壱尺 但シ文政頃ヨリ申出ニ依リ地先ノ村エ負担引渡」とあります。時期的には改修後の橋の様子とも取れますが、明治初年の「東京府志料」のサイズと同じなので、どちらとも断定はできません。