前回のつづきで、鹿島紡績所の水車を回した王子分水の寸積66坪8合はそのまま石神井川に落とされ、王子村以下の下用水組合が補助用水としていました。これに目を付けたのが、渋沢栄一らによって設立された抄紙会社(のちの王子製紙)で、鹿島紡績所、下用水組合と余水使用について合意、明治8年(1875年)に現王子駅北側で操業を開始します。その陰には工場誘致を主導した王子村の先見性があり、土地と用水を提供し、用水費用の肩代わりと村民の雇用を確保しました。翌明治9年、偽造できない紙幣用紙を製造するため、紙幣寮抄紙局が抄紙会社の東隣で操業を開始します。その際やはり王子分水の余水が当てにされ、結局紙幣寮と下用水組合(実質は抄紙会社)が半々で使用することで合意、のち明治11年、(紙幣寮抄紙局改め)印刷局抄紙部には千川口で新規に50坪の増量が認められ、都合印刷局抄紙部83坪4合、下用水組合は33坪4合が割り当てられた計算で、→ 千川上水分配堰碑にあった数字、「樋口寸積百拾六坪八合 内 八拾三坪四合印刷局抄紙部 三拾三坪四合王子村外廿二箇村」と一致します。(これに対し千川水道150坪、分配堰碑にはありませんが、上下井草村以下の南6ヶ村63.84坪、中村以下の北11ヶ村は53.18坪でした。)
- ・ 「千川上水使用権利詳細平面図」(部分) 豊島区教育委員会「千川上水展」に掲載された、明治38年頃とされる平面図(紙の博物館所蔵)を元に、その一部をイラスト化しました。巣鴨村分水のところでUPした→ イラストの上部に(若干の中略を挟んで)続くものです。なお、カッコ書きは原図にはありません。
- ・ 醸造試験場跡地公園 大砲製造所跡地は鹿島紡績所、印刷局抄紙部をへて明治37年(1904年)、大蔵省醸造試験所の敷地となりました。現在は独立行政法人酒類総合研究所の東京事務所に移行し、跡地の大半は公園になっています。
- ・ 逆川跡 西ヶ原村(字西谷戸)付近から発する石神井川の支流で、通常とは逆の北向きに流れることからそう呼ばれています。明治通りを越えたところで、→ 「明治42年測図」では、この付近で左手からの王子分水と合流しています。
- ・ 音無橋 日光御成道(現本郷通り)が迂回して石神井川を越えていたのを、ショートカットして架けた橋です。このやや上流に王子石堰(上掲絵図では「堰堤」)があり、左右に二流の用水を分けていました。