「千川素堀筋普請所積見分」によると、滝野川村内には三本の潜樋が設けられていました。その最初のものは、「滝野川村分水口」から32.5間(≒59.1m)のところにあり、「往還に石橋有所」と付記されています。→ 「段彩陰影図」を見ると分かりますが、JR線を越える前後の千川上水は、谷端川の谷筋のギリギリにあります。そのため、最初の分水口の手前60間(≒109m)のところから、高さ3尺(≒90cm)の土手を築いていました。その下に樋を設け悪水吐としたもので、長崎村のと同じ仕組みですが、ここでの特徴は並行する旧中山道の排水を兼ねていたことです。「往還に石橋有所」の往還は旧中山道、石橋は→ 「下板橋宿絵図」に描かれた、一里塚に近い方のものと思われます。
- ・ 千川上水跡 右カーブで旧中山道と並行するところです。クランクで旧川越街道を越えてからここまでが、明治17年(1884年)の水路変更の区間と思われます。
- ・ 千川上水跡 板橋駅前公園に差し掛かります。「郵便地図」にはこのあたりで、旧中山道と谷端川を結ぶ水路が、千川上水と交差する様子が描かれています。
- ・ 千川上水跡 上掲写真の左手、旧中山道からのショットです。正面の盛り上がっているのが千川上水跡の道路で、その先を下ると170mほどで谷端川です。
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