神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

滝野川悪水吐

2015-10-13 06:54:29 | 千川用水6

 「千川素堀筋普請所積見分」によると、滝野川村内には三本の潜樋が設けられていました。その最初のものは、「滝野川村分水口」から32.5間(≒59.1m)のところにあり、「往還に石橋有所」と付記されています。→ 「段彩陰影図」を見ると分かりますが、JR線を越える前後の千川上水は、谷端川の谷筋のギリギリにあります。そのため、最初の分水口の手前60間(≒109m)のところから、高さ3尺(≒90cm)の土手を築いていました。その下に樋を設け悪水吐としたもので、長崎村のと同じ仕組みですが、ここでの特徴は並行する旧中山道の排水を兼ねていたことです。「往還に石橋有所」の往還は旧中山道、石橋は→ 「下板橋宿絵図」に描かれた、一里塚に近い方のものと思われます。

 

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    ・ 千川上水跡  右カーブで旧中山道と並行するところです。クランクで旧川越街道を越えてからここまでが、明治17年(1884年)の水路変更の区間と思われます。

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    ・ 千川上水跡  板橋駅前公園に差し掛かります。「郵便地図」にはこのあたりで、旧中山道と谷端川を結ぶ水路が、千川上水と交差する様子が描かれています。

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    ・ 千川上水跡  上掲写真の左手、旧中山道からのショットです。正面の盛り上がっているのが千川上水跡の道路で、その先を下ると170mほどで谷端川です。  

 <太郎兵衛水車>  前回UPの→ 「近傍図」の円周の先に、水車マークが描かれています。→ 「取調絵図」(元治元年 1864年)にも、上樋と中樋の間に水車小屋(「太郎兵衛水車」と付記)が描かれており、位置関係はピッタリです。また、「千川上水路図」の八基の水車のうち、最後のものも同じような位置関係で描かれていますが、こちらには分水口はなく、かわりに「下水吐」とあり、その下流が「水車場」さらに一里塚となっています。結局、時代や描く絵図によって個々の要素には異同があるものの、順序は最初の分水、最初の悪水吐き、水車、一里塚で一貫していることになります。
 ところで、明治18年(1885年)に東京府知事の千川巡視があり、板橋宿では宮本頼三所有の水車二ヶ所を視察しています。それが、同38年の「水車取調書」には、宮本所有の水車は一ヶ所のみで、これは喜内古屋水車だと思われます。同年頃作成とされる→ 「千川上水使用権利詳細平面図」にも、喜内古屋水車の回し堀は描かれていますが、下流に水車はなく、この間に廃止されたのでしょう。なお、「北区史」には「平尾水車(現板橋区板橋1-16付近)」との記述があります。板橋1-16は板橋駅前ロータリーの一つ手前の区画なので、同じ水車を指しているものと思われます。