神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

千川水道株式会社

2015-10-26 06:49:58 | 千川用水6

 明治13年(1880年)、岩崎弥太郎らにより千川水道株式会社が設立され、千川「上水」は三度目の復興を果たします。給水範囲も同じく、小石川、本郷、神田、下谷、浅草方面で、翌年上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会にあわせ、突貫工事で開業にこぎつけました。次いで、明治15年に公開された上野博物館付属動物園には、千川水道の水を利用した観魚室(水族館)も設けられました。なお、下掲「実測図」から読み取れるように、途中日光御成道(本郷通り)にシフトした江戸時代と異なり、本郷追分まで中山道を利用していました。現本郷3丁目交差点で、そのまま南下と左折の二系統に分かれるのは、江戸時代と全く同じです。この図からは切れますが、南下する経路は聖堂前で、左折するほうは切通し手前で途切れており、工事中の様子と思われます。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」に収録されている北東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。上半分は本郷追分、下半分は本郷3丁目交差点で、通りの中央の点線が千川水道です。

 千川水道成立から20年も経たない明治31年(1898年)、淀橋浄水場から神田、日本橋方面に、東京最初の近代水道が通水されます。給水範囲は順次拡大され、翌年にはほぼ市内全域をカバー、明治34年には神田、玉川上水が給水を停止します。千川水道もその役割を終え、明治41年、千川水道株式会社は解散しました。市内への通水は岩崎家の所有する六義園に限られ、昭和13年(1938年)、六義園が東京市に寄贈された後も、同43年、都営地下鉄の工事により、六義園への給水が断たれるまで続きました。六義園への給水が停止して間もない昭和45年(1970年)、都水道局板橋浄水場は、(陸軍造兵廠から引き継いでいた)千川上水からの取水をやめ、同46年大蔵省印刷局王子工場が工業用水道に切り替えます。戦後、王子製紙王子工場を承継していた十条製紙も、すでに水利権を放棄していたため、千川上水の利用は皆無となり、その歴史はひとまず終わることになります。

 

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    ・ 千川上水公園  溜池(沈殿池)の出入口二か所の水門を操作するものです。水門から推測される池は、→ 「明治42年測図」のものに比べると、はるかに小さくまた位置も明治通り寄りにあり、公園化された昭和15年(1940年)前後に、コンパクトに作り直されたものと思われます。