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水車一覧

2015-10-28 06:37:05 | 千川用水6

 明治以降の水車の設置場所に関する絵図並びに一覧表です。該当個所で個別に扱っかってきたものをまとめてみました。その際参考にしたのは、明治17年頃が「千川上水路図」、「東京近傍図」、明治38年頃は「千川上水使用権利詳細平面図」、「千川家文書」中「千川水路水車取調書」、昭和15年頃は武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」です。なお、武蔵高校の「千川上水」には「千川の流れを利用した水車小屋は、昭和4年頃に於てすら六ヶ所を數へ得るのであるが、」とあり、大正末から昭和の初めにかけて減少に転じたことをうかがわせます。その確認のため、「大正10年第二回修正」、「昭和4年第三回修正」の水車を間に挟みました。その際、「1/10000地形図」が未発行の地域は、前後の状況から明らかな場合も「?」にしましたが、昭和4年で最大5ヶ所しか数えられませんでした。

 

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    ・ 「千川上水水車設置場所」  明治38年頃作成の「千川上水使用権利詳細平面図」(紙の博物館所蔵)をベースにしたため、同時代の「千川水路水車取調書」にはカウントされている鴨下水車の回し堀が欠落しています。
水車(通称) 明治17年頃 明治38年頃 大正10年頃 昭和 4年頃 昭和15年頃
平井1*1
平井2
田中*2
斎藤
鴨下*3
矢島
岩崎
田留
青山*4
喜内古屋
平尾*5
加藤*6

 

 *1 ) → 「元治元年取調絵図」に長い回し堀が描かれ、「名主伊左衛門 水車一ヶ所」と書き込まれているものです。「千川水路水車取調書」によると、明治38年当時の平井水車は、(他が精米用なのに対し)二か所とも針金製造用でした。
 *2 ) 千川上水関係の水車としては最も遅く、昭和40年代まで稼働していました。
 *3 ) 「千川上水使用権利詳細平面図」には欠落していますが、同時期の「千川水路水車取調書」には記載されています。「練馬の文化財(千川上水特集号)」によると、大正9年(1920年)に田柄用水の三原台に移転しました。
 *4 ) 「明治42年測図」から「大正10年第二回修正」まで描かれています。
 *5 ) 「元治元年取調絵図」には、ほぼ同じ場所に水車小屋が描かれ、「太郎兵衛水車」と付記されています。また、翌年の大砲製造所への引水工事の記録には、「字平尾水車」として登場しています。
 *6 ) 「北区史」によると加藤家所有、輪径二丈八尺の精米用で、「大正5年第一回修正」まで描かれています。なお、王子分水には他に鹿島紡績所の輪径二丈四尺のイギリス製鉄造水車がありました。