神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

加賀藩下屋敷分水

2015-10-06 07:17:26 | 千川用水6

 昨日UPの→ 「下板橋宿絵図」で、ひときわ目立つのが加賀藩下屋敷(平尾邸)ですが、上水使用が再び廃止となった翌年の天明7年(1787年)年、その平尾邸に千川用水を引き入れる話が持ち上がりました。「板橋区史 / 通史編上」によると、千川家から加賀藩に提示された見積書には、分水路の延長168間(≒306m)、費用総額193両2朱、千川家に納められる使用料、管理料毎年25両などと見積もられています。この分水路のその後について、文献的には定かではありません。ただ、「下板橋宿絵図」で、観明寺門前に架かる石橋が、この分水路にかかわるものと目されています。同図の製作年代は未詳ですが、同様の石橋が文化3年(1806年)の「中山道分間延絵図」にもあることから、この計画が実際に施工、運用されたのでしょう。なお、千川上水と石橋の位置関係から、分水口は平尾橋手前と推測できます。

 

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    ・ 加賀藩江戸下屋敷絵図(部分)  下屋敷跡にある板橋区教育委員会の解説プレートからの引用で、「前田育徳会尊経閣文庫所蔵」と付記されています。同じような「下屋敷御林大綱之絵図」(文政7年 1824年)を、同区のホームページ内「こうぶんしょ館電子展示室」で閲覧できます。

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    ・ 観明寺門前  旧中山道に面しており、石橋はこの右手に架かっていました。境内には加賀藩下屋敷にあった稲荷社などが移築されており、正面の赤門も元下屋敷通用門と伝えられています。

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    ・ 観明寺東縁  ワンブロック、100mで加賀藩下屋敷のあった区画に突き当たります。なお、明治44年「郵便図」には、観明寺境内の東縁に沿ったあと、右手にシフトし現北園高校方面に向かう水路が描かれています。

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    ・ 東板橋体育館前  上掲絵図で、大池の先端に水路が注いでいるあたりです。「王子新道」の石碑が見えますが、板橋から新興工業街王子へ通う通勤路として、旧中山道仲宿交差点を起点に、明治21年(1889年)開通しました。