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ワークシート(25)中国史(8)隋唐 ② 東アジア文化圏

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(25)中国史(8)隋唐 ② 東アジア文化圏

 唐の2代目皇帝の太宗も高句麗遠征には失敗した。【 】の後を継いで3代目皇帝に即位した高宗は、まず朝鮮半島南東部の新羅と結んで半島南西部の百済を滅ぼした。【 】を征服すると、次いで朝鮮半島北部の高句麗征服にも成功した。征服された【 】の人々は北に逃げて渤海を建国した。この【 】は日本とも交流を持ち、「海東の盛国」と呼ばれた。ついに【 】を征服した3代目皇帝【 】は、高句麗の後に安東都護府を置いた。この【 】都護府は現在の平壌(ピョンヤン)に置かれたが、唐と同盟していた【 】が【 】(ピョンヤン)まで北上したため、安東都護府は遼東(リョウトウ)に撤退した。この結果、朝鮮半島は新羅によって初めて統一された。初の半島統一王朝になった【 】は都を慶州に置いた。都の【 】の貴族制度を骨品制という。統一によってこの【 】制は半島全体に広がった。
 3代目皇帝【 】のときに唐は広大な領域を支配する大帝国に成長した。唐は征服した地方に6つの都護府をおき、征服した人々に自治を認めた。すなわち、唐はこの【 】を通じて征服民に自治を認める間接統治を行ったのである。
 高宗が亡くなると妻の武后が実権を握り、ついに【 】は則天武后をして皇帝に即位した。この【 】は中国史上唯一の女帝で、則天武后は国を奪って国号を周とした。さらに韋后も政治に介入して政治を乱したので、この【 】と【 】の二人の女性が政治を混乱させた時代を「武韋の禍」という。この「【 】」という政治混乱を韋后を殺して収束し、唐を復活させた皇帝が玄宗である。この【 】が行った善政を「開元の治」と呼ぶ。しかし、この「【 】」の時代に中央政治が乱れたため、地方にあって間接統治を行っていた都護府の制度は崩壊した。【 】が崩壊したため、唐は都護府に代わって辺境の地方に節度使を配備した。この【 】は辺境を防衛するための軍団を指揮した。
 仏教が中国に伝えられたのは魏晋南北朝時代であった。唐代になると中国僧の玄奘がインドに仏教を学びに行った。中国僧【 】が学んだのはナーランダ僧院で、ハルシャ=ヴァルダーナ王にも会っている。玄奘が書いた旅行記『大唐西域記』には【 】王を「戒日王」と記録している。次いで中国僧の義浄もインドの【 】僧院に学んだが、すでに玄奘が『【 】』の中で「【 】」と記録したハルシャ=ヴァルダーナ王は亡くなっており、インドの仏教も廃れていた。そこで中国僧【 】はスマトラ島のシュリヴィジャヤ王国に渡った。そして【 】王国の都パレンバンで仏教の戒律を学んで帰国した。その旅行記『南海寄帰内法伝』の中で【 】王国を「室利仏逝」と記録している。すなわち「【 】」とはシュリヴィジャヤ王国の中国名である。






ワンフレーズ・チェック
(1) 3代目皇帝【 】は朝鮮半島の【 】と結んで、半島北部の【 】を滅ぼした。
(2) 【 】都護府から平壌を奪った【 】は朝鮮半島初の統一王朝である。
(3) 【 】制は新羅の都【 】の身分制度である。
(4) 唐は征服した地方に【 】をおいて、自治を認める間接統治をした。
(5) 高宗が亡くなると「【 】」により中央政治が乱れ、都護府は廃止された【 】が配備された。
(6) 「武韋の禍」とは唐に代わって【 】を建てた女帝【 】と韋后による政治の混乱である。
(7) 【 】を殺して唐を復活させた【 】は「【 】」という善政を行った。
(8) 中国僧【 】はインドの【 】僧院で仏教を学び、面会した【 】王を「【 】」と記録した。
(9) 中国僧【 】はシュリヴィジャヤ王国の都【 】で学び、この国を「【 】」と記録した。

ワークシート(24)中国史(7)隋唐 ① 建国期

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(24)中国史(7)隋唐 ① 建国期

 581年楊堅は大興城を都として隋を建国した。隋の建国者【 】が都を置いた【 】は後の長安である。【 】の建国者である楊堅は即位して文帝となった。さらに楊堅は【 】年に隋を建国した後、589年に南朝の陳を滅ぼして中国を再統一した。文帝は均田制を実施した。この【 】制という土地制度によって土地を分配された農民は、租庸調制という税を納めるか、府兵制という兵制によって兵士になるかに分けられた。この土地制度である【 】制と税制である【 】制と兵制である【 】制は次の王朝である唐まで受け継がれた。また、選挙という官吏登用制度を始めたのも隋からである。この【 】はのちに科挙に発展した官吏登用制度である。
 隋の文帝すなわち【 】の後を継いだのは煬帝(ヨウダイ)である。【 】(ヨウダイ)は黄河と長江とを結ぶ大運河を建設した。【 】の建設は農民に大きな負担となったが、南北朝時代に発展し始めた長江下流域と政治の中心である黄河流域とを結ぶ役割を果たした。また【 】(ヨウダイ)は朝鮮北部にあった高句麗への遠征を行った。しかし、3回に及ぶ【 】への遠征は全て失敗に終わった。煬帝が行った【 】の建設の負担に加えて3回の【 】遠征の失敗によって各地で反乱が起こり、【 】年に建国した隋は40年足らずで滅亡した。
 反乱によって滅亡した【 】に代わって618年唐が成立した。都は長安である。【 】年に成立した唐の建国者は李淵(リエン)で、この【 】は皇帝に即位して高祖になった。その子の李世民は2代目皇帝に即位して太宗となった。2代目皇帝【 】は優れた政治を行ったので、その政治を「貞観(ジョウガン)の治」と呼ぶ。李世民すなわち【 】はその「【 】(ジョウガン)の治」のなかで、三省六部(サンショウリクブ)という中央官庁を設置した。この【 】の三省とは、中書省(チュウショ)・門下省(モンカ)・尚書(ショウショ)省である。これら三省それぞれの役割は、【 】(チュウショ)省が立案、【 】(モンカ)省が審査、【 】(ショウショ)省は行政実務である。行政実務を扱う【 】省の下に六部が置かれ、分担して実務に当たった。また、科挙も本格的に実施された。この【 】で儒学の素養がある人物を試験によって官吏に登用したが、唐の政治は貴族が中心であった。したがって、唐の時代を【 】政治の時代という。
 一方、モンゴル高原では552年に突厥(トッケツ)が成立した。この【 】(トッケツ)はトルコ系の民族で、モンゴル高原と西域の両方を支配する大帝国であった。建国間もない【 】(トッケツ)はササン朝ペルシアのホスロー1世と中央アジアの遊牧民であるエフタルを挟撃(キョウゲキ)して滅ぼした。しかし、隋の時代にこの突厥は【 】高原を支配する東突厥と、【 】を支配する西突厥に分裂した。




ワンフレーズ・チェック
(1) 隋は【 】年に成立し、南朝の王朝である【 】を征服して中国を再統一した。
(2) 隋の建国者は【 】で文帝として即位し、都を後の長安である【 】においた。
(3) 隋の【 】は【 】と【 】を結ぶ大運河を建設した。
(4) 隋の【 】は3度に及ぶ【 】遠征に失敗し、各地で反乱が発生して滅亡した。
(5) 【 】年に成立した唐の建国者【 】は都を【 】においた。
(6) 李世民は【 】として即位して「【 】の治」という善政を行った。
(7) 唐の行政組織を【 】といい、三省とは【 】省・【 】省・【 】省である。
(8) 隋の時代に始まった【 】という官吏登用制度は、唐になると【 】に発展した。
(9) モンゴル高原で552年に成立したトルコ系の【 】は西域も支配する大帝国に発展した。
(10) 建国間もない突厥は【 】朝ペルシアのホスロー1世と組んで中央アジアの【 】を挟撃した。

ワークシート(21)中国史(4)後漢~三国時代

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(21)中国史(4)後漢~三国時代

 漢の外戚であった王莽は新を建国した。しかし、新を建国した【 】は周の時代の政治を再現しようとしたためにすぐに滅亡した。この【 】を滅亡させた反乱は赤眉の乱であった。【 】の乱を指導した劉秀は25年に後漢を建国し、都を洛陽に定めた。後漢の建国者【 】は即位して光武帝と呼ばれる。【 】年に成立した後漢は前漢と同じ政治の仕組みを採用していた。
 後漢がもっとも盛んだったのは100年ころの和帝の時代である。この【 】は班超を西域都護に任命して西域諸国を治めさせた。西域都護に任命された【 】は部下の甘英をさらに西方に派遣したことで知られる。旅行家【 】は安息から条支国に至り大海まで到達したという記録が『後漢書西域伝』に書かれている。なお、西域都護の【 】の兄は班固である。この【 】は『後漢書』を書いた歴史家である。
 また、後漢の時代、166年に大秦王安敦の使者が日南郡に派遣されてきた。この【 】王【 】とは、ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスである。すなわちローマ皇帝【 】の中国名は安敦である。
 後漢はやがて儒学者と宦官・外戚が対立して衰退し、184年に発生した黄巾の乱による混乱の中で滅亡した。この後漢末【 】年に発生した【 】の乱は大農民反乱で、張角が指導した太平道という宗教団体と、張陵が指導した五斗米道という宗教団体が中心になって起こした。とくに張陵が指導した【 】はのちに道教の源流になっていった。道教は五斗米道の指導者【 】の子孫たちによって始められたのである。
 184年に発生した【 】の乱以降、中国は群雄割拠の混乱期になった。分裂した中国はやがて三国にまとまったので三国時代と呼ぶ。【 】時代の三国とは魏・呉・蜀で、220年魏の文帝が後漢を滅ぼした。後漢を滅ぼした【 】の将軍だった司馬炎は280年に呉を滅ぼして中国を再統一した。この【 】が建国した王朝を西晋という。
このように中国が政治的に混乱した背景には地球の寒冷化が考えられている。その結果、北方のモンゴル高原から遊牧民族がこの時期に続々と中国に移住してきた。そのため、中国はいっそう混乱した。




ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】の乱を指導した【 】は新を滅ぼして後漢を建国した。
(2) 【 】年ころ和帝の時代、西域都護に【 】が任命され、部下の【 】は条支国に至った。
(3) 166年にローマ皇帝【 】の使者が後漢の【 】郡に来た。
(4) 後漢は184年に起こった【 】の乱で大混乱となり、【 】年に滅亡した。
(5) 【 】が指導した太平道や【 】が指導した五斗米道が黄巾の乱の中心勢力であった。
(6) 中国の三国時代には【 】・【 】・【 】の三国がしのぎを削った。
(7) 魏に替わって成立した【 】を建国した【 】は呉を滅ぼして中国を再統一した。

ワークシート(20)中国史(3)前漢~新

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(20)中国史(3)前漢~新

 農民反乱である陳勝呉広の乱による混乱の中で、秦は前202年に滅亡した。【 】の乱をきっかけとした混乱の中で登場した項羽と劉邦は激しく争い、最終的に劉邦が【 】を破って漢を建国した。都を長安において漢を建国した【 】は高祖と呼ばれた。劉邦すなわち【 】は郡国制を使って中国全土を統治した。この【 】制とは皇帝の直轄地には郡県制を採用し、地方の支配は世襲を認めた王を配置して統治を任せる制度である。したがって地方の支配は封建制を復活させたといえる。すなわち中央を【 】制で、地方を【 】制で統治する制度が【 】制である。漢を建国した劉邦と同じ時期に北方の騎馬遊牧民族である匈奴は勢力を拡大していた。この【 】の支配者が冒頓単于である。【 】はモンゴル高原に加えて西域のシルクロードも支配し、騎馬遊牧民族の【 】は全盛期を迎えた。
 一方、世襲を許された地方の【 】達はやがて皇帝に反発するようになり、前154年景帝のときに呉楚七国の乱を起こした。したがって【 】の乱は諸王たちの反乱である。景帝は【 】年の呉楚七国の乱を制圧した。
 呉楚七国の乱を制圧した【 】の後を継いで即位した武帝は、地方の支配者である諸王を廃止し、中国全土で郡県制を施行した。さらに【 】は朝鮮を征服して朝鮮4郡を、ヴェトナムなどを征服して南海9郡を置いて領域を広げた。匈奴を撃つために大月氏と同盟を結ぶ目的で、大旅行家張騫を派遣して西域情報を得た。大月氏まで往復した大旅行家【 】は【 】との軍事同盟には失敗したが、汗血馬などの情報を中国にもたらした。
武帝は【 】高原と【 】のシルクロードの両方を支配していた【 】に対して大規模な遠征を行った。モンゴル高原に遠征したのは将軍の衛青、西域に遠征したのは将軍の霍去病である。このように【 】や【 】といった将軍の活躍によって漢は領域を広げたが、大規模な遠征の費用が大きく、漢の財政は苦しくなった。そのため塩・鉄・酒を国家の専売とし、均輸法や平準法を定めた。しかし、【 】・【 】・【 】を専売にしたり、【 】法や【 】法を定めて税収を上げようとした政策は失敗したため、紀元後8年に外戚の王莽が政権を略奪して漢は滅亡した。外戚の【 】が建国した王朝を新という。
漢の武帝の時代は安定していたので儒学が発展した。とくに董仲舒は五経博士を設置して儒学の国学化を進めた。【 】が設置した五経博士は五経を研究する役所である。漢の武帝の時代に【 】はおおいに発展したが、新を建国した【 】は儒学の思想に基づいて政治を行い、周の時代の政治を理想としたため現実社会と合わずに【 】が滅亡する原因となった。
また、漢の武帝は官吏登用法である郷挙里選を行った。この【 】という制度は地方の豪族が地元から役人を選んで中央政府に送り込むもので、地方豪族の力が依然として強いことを示している。そのほか、司馬遷が歴史書である『史記』を書き残したのも漢の武帝の時代であった。【 】が書いた『史記』は紀伝体で書かれた。この【 】体とは皇帝などの人物中心、出来事中心に編集して歴史の書き方で、時代順に書き進める編年体とは対照的な記述方法である。






ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】を破った劉邦は【 】年に漢を建国し、都を【 】に定めた。
(2) 高祖が行った【 】制で配置された諸王は【 】年に【 】の乱を起こしたが【 】に鎮圧された。
(3) 呉楚七国の乱後に即位した武帝は【 】制を施行した。
(4) 武帝の時代、匈奴と戦うために大旅行家【 】を【 】に派遣して西域の情報を手に入れた。
(5) 武帝の時代、【 】と【 】の活躍で匈奴に勝利を治めた。
(6) 武帝の時代、【 】の活躍で【 】が国学化された。
(7) 武帝の時代、【 】という官吏登用制が採用された。
(8) 武帝の時代、財政再建のために【 】・【 】・【 】が専売され、【 】法と【 】法が制定された。
(9) 司馬遷が書いた『【 】』は人物・出来事中心の【 】体で書かれた。

ワークシート(19)中国史(2)秦

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(19)中国史(2)秦

 秦王の孝公が登場すると戦国の七雄の一つであった秦は発展し始めた。秦王【 】は法家の思想を採用し【 】の思想家である商鞅を宰相に登用して成功を収めた。また秦は郡県制を用いて領域を支配した。36の郡に秦の領域を分けて各郡に長官を派遣したのである。このような中央集権的な統治方法を【 】制という。
 秦の始皇帝は同じく【 】の思想家である李斯を宰相に登用した。秦の【 】は前221年に中国を統一して最初の皇帝になった。秦は都を咸陽に置き、全領域を48郡に分けて郡県制を布いた。また厳しい思想統制である焚書坑儒を行った。この【 】とは儒家などの書物を焼き、儒家を穴埋めにした事件である。思想統制に加えて経済面での統制も強化された。度量衡を統一し、大商人を都の【 】に移住させ、鋳造貨幣も半両銭に統一した。戦国時代には各国でさまざまな貨幣が作られていたが、秦では【 】のみが使用されたことで、商業は大いに発展した。
 中国を始めて統一した秦の【 】は北方のモンゴル高原で勢力を広げていた匈奴に対抗するために万里の長城を建設した。モンゴル高原で台頭してきた【 】は騎馬遊牧民族である。始皇帝は将軍蒙恬に命じて匈奴を攻撃し、さらに同じく将軍【 】に命じて【 】の建設を行った。しかし、万里の長城の建設の負担は大きく、始皇帝の死後まもなく陳勝呉広の乱が発生した。【 】の乱は中国史上最初の農民反乱であった。【 】の乱をきっかけとした混乱の中で、中国最初の統一王朝である【 】は前202年に滅亡した。







ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】年に中国を最初に統一した王朝である【 】は都を【 】に置いた。
(2) 中国を始めて統一した【 】は宰相に【 】の思想家である【 】を登用して厳しい政治を行った。
(3) 秦は【 】制を採用して領域を48郡に分けて統治した。
(4) 秦は思想統制策である【 】を行った。
(5) 秦は貨幣を【 】に統一し、大商人を都の【 】に移住させた。
(6) 秦の始皇帝は将軍【 】に命じて北方の【 】を攻撃し、さらに【 】を建設した。
(7) 万里の長城の建設の負担から大農民反乱である【 】の乱が発生して秦は【 】年に滅んだ。

ワークシート(18)中国史(1)黄河文明~春秋戦国時代

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(18)中国史(1)黄河文明~春秋戦国時代

 前5000年ころ黄河中流域の河南省に黄河文明が成立した。この時期の【 】文明をヤンシャオ文化と呼ぶ。この【 】文化は仰韶文化と書く。【 】文化を発見したのはスウェーデン人アンダーソンであった。スウェーデン人【 】が発見した仰韶文化は新石器時代の文化で、磨製石器を使用していた。
さらに前3000年ころになると黄河文明は黄河下流の山東省に移った。この時期の黄河文明をロンシャン文化と呼ぶ。この【 】文化は竜山文化と書く。この【 】文化では仰韶文化同様に【 】時代の文化で、進歩した三足土器が使用された。
前1600年ころになると殷が成立した。この【 】は司馬遷の『史記』に書かれた伝説上の王朝と考えられていた。しかし、王国維が甲骨文字の解読に成功して、中国最初の王朝である【 】の実在が確認された。まさに、【 】が『史記』で記述した内容通りであった。【 】文字が発見された場所は河南省安陽県小屯村である。すなわち【 】省【 】県【 】村が殷の都すなわち殷墟である。甲骨文字はこの【 】で発見されたといえる。殷は高度な青銅器文明で、邑と呼ばれる都市国家の連合体であった。この都市国家すなわち【 】を統率していたのが大邑商であった。殷では神権政治がおこなわれ、【 】が解読した甲骨文字が占いに使用された。この【 】文字が現在の漢字の源流である。
前11世紀になると殷に替わって周が成立した。周の都は鎬京である。この2番目の王朝【 】では封建制による統治が行われた。この【 】制とは血縁関係に基づく氏族間の上下関係である。この氏族を宗族という。したがって、この【 】という氏族の中で本家と分家に別れ、本家を上位に立って分家を従える関係といえる。この宗族が守るべき上下関係のルールを宗法という。
周は北から犬戎という異民族に侵入され前770年に都を【 】から洛邑に遷都した。異民族【 】の侵入によって周が都を東に遷した出来事を周の東遷という。また、前770年以前の都が【 】に置かれていた時代を西周、【 】年以降の都が【 】に置かれていた時代を東周と区別する。
前770年から始まった東周の前半の時代は、諸侯が周の王室を支えて異民族に対抗した。これらの諸侯のうち有力な【 】を覇者という。しかし、前403年に諸侯の晋が韓・魏・趙の三国に分裂したのをきっかけに、周の王室への敬意が失われた。この【 】年に晋が【 】・【 】・【 】の三国に分かれる以前を春秋時代と呼び、以後を戦国時代と呼ぶ。すなわち【 】時代で覇者が周王室を支えたが、【 】時代は周王室を無視して7カ国が争う乱世になった。この7カ国を戦国の七雄と呼ぶ。また、諸子百家という思想家が登場した。【 】の中でも孔子の儒家、老子の道家、商鞅や李斯の法家が有力である。孔子の【 】はさらに孟子や荀子が受け継ぎ、【 】の道家は荘子が受け継いだ。
【 】年から始まった戦国時代では各国が富国強兵策を取ったが、中でも西方の秦が有力になり、【 】の思想家である李斯を宰相とした始皇帝が前221年に中国を統一した。



ワンフレーズ・チェック
(1) 前5000年ころ新石器時代の黄河文明が成立し、中流域の【 】省で【 】文化が成立した。
(2) 前3000年ころ黄河下流域の【 】省で【 】文化が成立した。
(3) 前1600年ころ中国最初の王朝である【 】が成立した。
(4) 【 】で発見され、王国維が解読した【 】文字は殷では占いに使用された。
(5) 前11世紀に都を【 】に置いた【 】が成立し、【 】制による統治が行われた。
(6) 【 】年に周は都を【 】に遷都した。前半を【 】時代、後半を【 】時代と呼ぶ。
(7) 春秋時代は周の王室が尊敬され、【 】と呼ばれる有力諸侯が周王室を支えた。
(8) 【 】年から戦国時代になると、【 】と呼ばれる7カ国が対立した。
(9) 戦国時代では【 】と呼ばれる思想家が登場した。
(10) 【 】年に秦の始皇帝が【 】を宰相に登用して中国を統一した。

板書(23)中国史(6)魏晋南北朝時代 ② 制度史

2011年07月11日 | ワークシート
板書(23)中国史(6)魏晋南北朝時代 ② 制度史

 220年から581年まで続いた魏晋南北朝時代は、中国の歴史の中でももっとも大きな変化が生まれた時代だった。
魏の文帝は「九品中正法」を行った。官吏登用法であるこの「【 】」は、豪族を9のランクに分け、中正官がランクに応じて官職に採用するという制度である。この「【 】」によって豪族の家柄が定まり、やがて豪族は貴族に変化した。豪族も貴族もともに大土地所有者であるが、前者の【 】は秦漢の時代、後者の【 】は唐の時代の大土地所有者である。この「【 】」の影響は大きく、唐の時代になると、大土地所有者である【 】が政治に大きな力を持った。
 また、土地制度の大きく変化した。魏の曹操は屯田制を始めた。曹操が始めた【 】制は、流民に土地を与えて兵士にする土地制度である。その後、西晋の時代には占田課田法が用いられた。さらに漢化政策をとった北魏の孝文帝は均田制を始めた。孝文帝が始めたこの【 】制は、のちに日本で行われた「班田収受法」の元になった制度である。ただし、【 】帝が始めた北魏の均田制は、妻・牛・にも田を与えるなど未完成であった。
均田制が用いられると、それに合わせた新しい税制が始まった。すなわち北魏の【 】帝が始めた均田制によって土地を分け与えられた農民は、その代わりに租庸調制による税が課された。【 】制の租とは穀物を納める税、庸とは労役の代わりに納める税、調とは絹などを納める税である。
 また、宗教の面でも魏晋南北朝時代は大きな変化があった。ブトチンガやクマラジーヴァの二人が中国に仏教を伝えた。【 】と【 】は二人とも西域の亀茲(クチャ)出身の僧である。一方、中国の伝統的宗教から寇謙之(コウケンシ)が新天師道を興した。この【 】道は五斗米道の流れをくむ道教の教団である。新天師道を興した【 】(コウケンシ)は北魏の太武帝に仕えて、道教は国教になった。













ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】は魏の【 】が始めた官吏登用法である。
(2) 九品中正法の影響で、豪族に代わって【 】が登場した。
(3) 【 】制は魏の【 】が始めた土地制度である。
(4) 【 】法は西晋時代の土地制度である。
(5) 【 】制は北魏の【 】帝が始めた土地制度である。
(6) 均田制が始まると【 】制という新しい税制が始まった。
(7) 租庸調制は穀物を納める【 】・労役の代納が【 】・絹や布を納める【 】といった税からなる。
(8) 【 】(クチャ)出身の僧【 】と【 】が中国に仏教を伝えたのは【 】時代である。
(9) 北魏の【 】帝に仕えた【 】が、【 】道という教団を興して道教を国教にした。
(10) 新天師道は【 】道の流れをくむ【 】の教団である。

板書(22)中国史(5)魏晋南北朝時代

2011年07月10日 | ワークシート
 板書(22)中国史(5)魏晋南北朝時代

 220年に魏の文帝が後漢を滅ぼして三国時代が始まった。三国とは、後漢を滅ぼした【 】に加え、健業を都とする呉と成都を美代子とする蜀である。呉の都【 】は現在の南京である。もっとも勢力が盛んだった魏であったが、後漢を滅ぼした【 】が亡くなると、国を司馬炎に奪われて滅亡した。【 】を滅ぼして西晋を建国した【 】は、やがて280年に健業すなわち現在の【 】に都を置いていた【 】を滅ぼして中国を再統一することに成功した。しかし、中国を統一して【 】時代を終われせた西晋は、八王の乱に続き、傭兵だった南匈奴が起こした反乱によって滅亡した。【 】が起こしたこの反乱を永嘉の乱という。この【 】の乱をきっかけにして北方遊牧民族が次々に中国の華北に侵入した。中国人たちは北方遊牧民族の侵入を避けて江南地方に移って東晋を建国した。【 】地方で東晋を建国した人物は司馬睿である。都は現在の南京にあたる健康であった。江南にはその後、現在の南京すなわち【 】を都とする中国人王朝が続いた。三国時代に健業を都とした【 】から東晋をへて全部で6つの王朝が【 】地方で成立したので、これらを六朝と呼ぶ。
 江南地方は中国人王朝が続いた結果、水田開発が急速に進んだ。また、文化面でも六朝文化という貴族文化が成立した。東晋の陶淵明(トウエンメイ)は詩、同じく東晋の王羲之(オウギシ)は書を完成させ、同じく【 】の顧之(コガイシ)が絵画で「女史箴図」で貴族の生活を描いた。また【 】文化のもう一つの特徴は清談(セイダン)である。【 】とは老荘思想の影響を受けた思想で、実際の政治から離れて学問を考えることである。
 一方、北方遊牧民族が侵入した華北では、約130年間続く大混乱の時代となった。これら様々な北方遊牧民族を五胡と呼ぶ。【 】とは匈奴・羯(ケツ)・鮮卑(センピ)・氐(テイ)・羌(キョウ)の5民族である。これら華北はこれら五胡によって16カ国に分裂していた。この時代を五胡十六国時代と呼ぶ。
その頃、モンゴル高原では386年に北魏が成立した。この【 】を建国したのは鮮卑族で、その建国者は拓抜珪という人物である。北魏の建国者【 】は道武帝として即位した。次いで北魏に登場した太武帝は、439年【 】時代の華北を統一した。これによって華北には【 】族が建国した【 】と、江南の中国人王朝が並立するようになったので、南北朝時代と呼ぶ。北魏ははじめモンゴル高原と華北を支配していたが、494年に孝文帝は漢化政策をとってモンゴル高原を捨て、華北に移住した。すなわち孝文帝がとった【 】政策の結果、【 】族は中国人として生きていくことになった。漢化政策をとった【 】帝のあと北魏は西魏と東魏に分裂した。前者の【 】はさらに北周になり、後者の【 】は北斉になったが、西魏に代わった【 】の外戚である楊堅は北周を滅ぼして581年に隋を建国した。隋の建国者【 】は、さらに南朝の陳を589年征服して中国を再統一することに成功した。






ワンフレーズ・チェック
(1) 三国時代には【 】・【 】・【 】の3国が並立して争った。
(2) 三国時代を統一した【 】という王朝は【 】の乱に続いておきた【 】の乱で滅亡した。
(3) 永嘉の乱により華北は【 】時代という戦乱の時代になり、中国人は【 】地方に逃れた。
(4) 陶淵明は【 】、王羲之は【 】、「【 】」を描いた顧之は絵画で知られる。
(5) 【 】とは六朝文化の特徴の一つで、政治には無関心な【 】思想の影響を強く受けていた。
(6) 匈奴・羯(ケツ)・鮮卑(センピ)・氐(テイ)・羌(キョウ)を【 】と呼ぶ。
(7) 北魏の建国者は【 】帝、華北を支配したのは【 】帝、漢化政策をとったのが【 】帝である。
(8) 北魏は【 】族が建てた王朝で、建国者は【 】すなわち道武帝である。
(9) 【 】は【 】年に隋を建国し、589年に南朝の【 】を征服して中国を再統一した。

インドの地形

2011年07月09日 | 高2用 授業内容をもう一度
 インドは北部を【チベット高原やネパール高原】にふさがれ、東方は【ガンジス】川の広大な湿地帯が人の交通を阻んでいます。南にはデカン高原【】が広がり、西方の海岸線は【イラン高原】の乾燥地帯が海岸まで広がっているので、人間がインドに入るにはインド北西部、【インダス】川の上流に近い【カイバル峠】しかありません。この峠を通って、【アケメネス朝ペルシア】の【ダレイオス1世】の軍勢もインドに来ましたし、【アレクサンドロス大王】もこの峠を越えてインダス川流域を支配しました。
 このことはインドの歴史に大きな影響を与えました。インドで新しい「何か」が起こるときは、いつも西北インドからである、ということです。インダス川流域で始まった文化はガンジス川流域に移って熟成される。そんな感じです。
 
 現在、インダス川流域を含んでいる国は【パキスタン】です。一方、ガンジス川流域は【バングラデシュ】です。ガンジス川下流域に人が住めるようになったのは20世紀に入ってから。しかし、今でも大洪水で多くの人々が亡くなっています。
 この両国の人口の90%以上を占めているのは【イスラム教徒(ムスリム)】です。インド共和国にも人口比10%程度のムスリムがいます。しかしインド共和国の85%は【ヒンドゥー】教徒です。仏教教徒は数%しかいません。
 古代インド史で「インド」といっている地域は、現在の【パキスタン・インド共和国・バングラデシュ・スリランカ・ネパール】のことです。 

 
 

古代インド史(5)ヴァルダナ朝

2011年07月09日 | トリオDE世界史
(1)ヴァルダナ朝 ①建国時期②都③国王
①7世紀
②カナウジ(曲女城)
③ハルシャ=ヴァルダーナ

(2)ヴァルダナ朝の仏教 ①中国僧2人②2人が学んだ僧院
①玄奘
②義浄
③ナーランダ僧院

(3)玄奘 ①旅行記②会った国王③経路
①大唐西域記
②ハルシャ=ヴァルダナ王(戒日王)
③陸陸

(4)義浄 ①旅行記②学んだ国③経路
①南海寄帰内法伝
②シュリヴィジャヤ王国の都パレンバン
③海海

古代インド史(4)グプタ朝

2011年07月09日 | トリオDE世界史
古代インド史(4)グプタ朝
(1)グプタ朝国王2人と中国名
①チャンドラグプタ1世 
②チャンドラグプタ2世
③超日王(チャンドラグプタ2世)

(2)法顕 ①時期②旅行記③その時代の国王
①4世紀の東晋
②仏国記
③チャンドラグプタ2世(超日王)

(3)グプタ朝 ①成立時期②都③滅亡の原因
①4世紀
②パータリプトラ(華氏城)
③エフタルの侵入

(4)グプタ朝時代の仏教 ①僧院②仏教遺跡③中国僧
①ナーランダ僧院
②アジェンタ石窟寺院
③法顕

(5)グプタ美術 ①特徴②遺跡③文学
①純インド風文化
②アジェンタ石窟寺院
③サンスクリット文学

(6)サンスクリット文学 ①詩人②戯曲③抒情詩
①カーリダーサ
②シャクンタラー
③メガドゥーサ

(7)ヒンドゥー教 ①成立時期②源流になった宗教③遺跡
①6世紀
②バラモン教
③エローラ石窟寺院

(8)ヒンドゥー教 ①経典②神話2つ
①マヌ法典
②マハーバーラタ
③ラーマーヤナ

(9)ヒンドゥー教の神 ①創造神②維持神③破壊神
①ブラフマー
②ヴィシュヌ神
③シヴァ神

(10)6世紀中頃のユーラシア ①東ローマ帝国②ササン朝ペルシア③モンゴル
①ユスティニアヌス帝
②ホスロー1世
③突厥

(11)6世紀中頃の中央アジア ①モンゴル②中央アジア③北インド
①突厥
②エフタル
③グプタ朝

古代インド史(3)マウリヤ朝

2011年07月09日 | トリオDE世界史
(1)マウリヤ朝の人名 ①建国者②全盛期の王③スリランカ布教
①チャンドラグプタ王
②アショーカ王
③マヒンガ王子

(2)マウリヤ朝 ①建国前の状況②建国の時期③都
①アレクサンドロスの東征でインドにギリシア軍が侵入
②前4世紀後半
③パータリプトラ(現パトラ)

(3)アショーカ王の政策 ①遠征地②統治方法③仏教
①カリンガ遠征
②ダルマによる統治
③第3回仏典結集(パーリ語)

古代インド史(2)アーリア人の時代

2011年07月09日 | トリオDE世界史
(1)インダス川流域時代 ①前1500年頃②前1200年頃③前1000年頃
①インダス川流域に侵入
②前期ヴェーダ時代
③ガンジス川流域に移動

(2)前期ヴェーダ時代 ①時期②最古のヴェーダ③状況
①前1200年頃~前1000年頃
②リグ=ヴェーダ
③激しい部族間抗争があった

(3)後期ヴェーダ時代 ①時期②成立した宗教③形成された社会秩序
①前1000年頃~前800年頃
②バラモン教
③4ヴァルナ

(4)ヴァルナ4つ ①司祭②武人③庶民④奴隷(先住民族)
①バラモン
②クシャトリア
③ヴァイシャ
④シュードラ

(5)バラモン教 ①特徴2つ②成立時期
①祭式万能主義
②カースト制を形成
③前1000年頃

(6)ウパニシャッド哲学 ①成立時期②特徴③否定した宗教
①前8世紀頃
②知識重視
③バラモン教を否定

(7)ウパニシャッド哲学の思想 ①宇宙の本質②人間の本性③真理の把握
①ブラフマン(梵)
②アーリマン(我)
③梵我一如

(8)前6世紀頃の特徴 ①状況②経済③思想
①16王国時代
②貨幣経済
③62見

(9)62見の特徴3つ
①反ヴァルナ
②反バラモン教
③輪廻転生

(10)ジャイナ教 ①創始者②支持層③特徴
①ヴァルダマーナ(マハヴィーラともいう)
②ヴァイシャ層
③徹底した不殺生主義

(11)仏教 ①創始者②支持層③釈迦の一族
①ゴータマ=シッタールタ(ブッタ)
②クシャトリア層
③シャカ族カピラ城(現ネパール)の王族

(12)釈迦の思想3つ
①八正道
②四諦
③中道

(13)釈迦の行動地域 ①生まれた地②最初の説法地③入滅地(死んだ土地)
①ルンビニ
②ブッタガヤ
③クシナガラ



古代インド史(1)インダス文明

2011年07月09日 | トリオDE世界史
(1)インダス文明の遺跡 ①パンジャブ地方②シンド地方③デュウ
①ハラッパ
②モヘンジョ=ダロ
③ドーラビーラ

(2)インダス文明の特徴3つ
①都市計画(レンガ造り2階建て家屋・排水溝)
②沐浴場
③メソポタミア文明の影響

(3)インダス文明 ①時期②人種③文字
①前2000年ころ
②ドラヴィダ人
③未解読のインダス文字(印章の文字)

(4)インダス文明の滅亡 ①征服民族②時期③影響
①アーリア人
②前1500年ころ
③ドラヴィダ人は南インドに移動

(5)インドの地形 ①西の大河②東の大河③インドに入り口
①インダス川
②ガンジス川
③カイバル峠




授業と試験の関係

2011年07月09日 | 何かの足しになれば
 一般的に学校の授業と試験の関係は、授業の内容を覚えたかどうか試験でチェックする、というものです。したがって、試験勉強は、教わった内容を覚えることに主眼が置かれます。しかし、大切のことは、覚えたことを「使える」点にあるはずです。「使う」とは、たとえば英語の授業で教わったことを使うと、全く始めて見た文章(初見の文章)を理解できるという感じです。

 世界史の授業と試験は以上のような観点から、大学入試問題をただただそのまま出題しています。したがって、授業内容を覚えるのは授業中に成し遂げたい。少なくても、復習のときにやってみたいところです。では試験前は何をするかといえば、初見の問題演習で試験本番の練習をすると良いでしょう。その中で??な部分があれば、それは
① 用語を覚え切れていないのか?
② 因果関係が理解できていないのか?
③ 経過説明ができていないのか?
④ 全く新しい文脈の中で用語が使われているのか?
⑤ 全く新しい因果関係なのか?
⑥ まだ学習していない内容なのか?
といったことが原因ですから、試験前の学習でチェックしましょう。チェックして覚える一番良い方法は、友達と勉強することです。