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ワークシート(172)中国史(17)明 ②明代中期の北虜南倭

2011年07月20日 | ワークシート

ワークシート(172)中国史(17)明 ②明代中期の北虜南倭

 

 靖難の変で皇帝に即した永楽帝は、積極的に外征を行った。即位した【 】帝は都を北京におき、北方のモンゴル高原へは5回も親征を行った。また、宦官でイスラム教徒の鄭和に南海遠征を行わせた。【 】は永楽帝の命を受けて東南アジアのマラッカ王国を拠点として各地に遠征した。なお、拠点となった【 】王国は東南アジア初のイスラム教国である。鄭和の南海遠征は15世紀の前半に合計7回行われた。【 】の南海遠征の結果、明は各国と朝貢貿易を行って海上貿易がさかんになった。

 日本が南北朝時代で約60年間も混乱が続いていたとき、日本人海賊である倭寇が朝鮮半島沿岸を荒らした。14世紀後半の時期の【 】人を中心とした海賊を前期倭寇という。この前期【 】は足利義満が勘合貿易を行って消滅させた。しかし、明は永楽帝が亡くなると海禁策に移った。【 】策とは海上貿易を禁止する政策で鎖国のことである。その結果、沿岸部の中国人が海賊となり、江南地方沿岸部を荒らした。この【 】人の海賊を後期倭寇という。後期【 】は15世紀後半から約100年間続き、明は後期【 】の取り締まりに苦しんだ。

 一方、永楽帝の死後、北方のモンゴル高原ではエセン=ハンが登場して全モンゴルを統一した。全モンゴルを統一した【 】は、モンゴル高原西部のオイラト部出身である。1449年【 】部出身の【 】が、明の正統帝の親征軍を土木の変で破った。このとき【 】の変で【 】帝は捕虜にされ北方に連行された。【 】年の土木の変で勝利したエセン=ハンは内紛で殺害されたが、次に15世紀後半になるとモンゴル高原東部のタタール部からガヤン=ハンが登場した。【 】部のダヤン=ハンはラマ教の黄帽派を保護した。【 】派はゲルク派ともいい、ツォンカパという僧が興したラマ教の改革派である。黄帽派を保護したタタール部の【 】も明に対し軍事的圧力をかけた。さらに16世紀中頃に同じ【 】部からアルタン=ハンが登場した。【 】は明との国境貿易を求めて明の都【 】を包囲した。1550年【 】が北京を包囲した事件を庚戌(コウジュ)の変という。1449年【 】の変から1550年の【 】の変まで続いた北方の脅威を「北虜」といい、沿岸部の中国人海賊である後期【 】による脅威を「南倭」という。「北虜(ホクリョ)」と「南倭(ナンワ)」を合わせて「【 】(ホクリョナンワ)」と呼び、15世紀後半から16世紀後半までの約100年間、明はこの「【 】」に苦しめられた。

 1545年スペインは南米でポトシ銀山を発見した。この【 】銀山の銀はメキシコの港に運ばれ、フィリピンのマニラを経由して中国に持ち込まれた。この銀は【 】の港から運ばれたのでメキシコ銀という。また、日本からも大量の日本銀が中国に持ち込まれた。スペインの【 】銀と日本銀が大量に流入した結果、明は好景気となり「北虜南倭」は解決した。

さらに、780年から続いていた両税法に代わって「一条鞭法(イチジョウベンポウ)」という新しい税制が始まった。この新税法「【 】」を考案したのは張居正である。780年から続いていた【 】法が銅銭で納税したのに対し、【 】が始めた「一条鞭法」は地税と丁税を一括して銀で納める税制である。

 

 

 

ワンフレーズ・チェック

(1)          靖難の変で即位した【 】帝は、【 】に命じて南海遠征を行い、朝貢貿易を盛んにした。

(2)          【 】は日本人海賊を中心に【 】半島の沿岸部を荒らしまわった。

(3)          【 】は中国人海賊を中心に【 】地方の沿岸部を荒らしまわり、「【 】」という脅威になった。

(4)          「北虜」とは、オイラト部の【 】とタタール部の【 】や【 】による脅威をいう。

(5)          【 】年エセン=ハンは【 】の変で正統帝を捕虜にした。

(6)          【 】年アルタン=ハンは【 】の変で北京を包囲した。

(7)          100年間続いた「【 】」は、16世紀後半【 】銀と日本銀の流入で解決した。

(8)          【 】年から続いた両税法では【 】で税を納めたが、一条鞭法では【 】で税を納めた。

(9)          【 】は両税法に代わって【 】という新税法を採用した。


ワークシート(171)中国史(16)明 ①洪武帝~永楽帝

2011年07月20日 | ワークシート

ワークシート(171)中国史(16)明 ①洪武帝~永楽帝

 

 元はモンゴル人による征服王朝である。しかし、元の王朝はラマ教を信仰したため財政難になった。財政難に対し交鈔(コウショウ)という紙幣を濫発した結果、インフレが起こって社会が混乱した。【 】の濫発による混乱の中、大農民反乱すなわち紅巾の乱が起こった。はじめ韓山童韓林児の父子がこの【 】の乱を指導したが、途中、【 】・【 】父子は殺害されたため、代わって朱元璋(シュゲンショウ)が登場して、ついに元を滅ぼした。【 】は元を滅ぼして1368年に明を建国し、都を金陵(キンリョウ)に定めた。都となった【 】は現在の南京にあたる。元は滅亡したが、【 】人はモンゴル高原に引き上げて、北元を興した。モンゴル高原で新たに成立した【 】は、非常に軍事力は強く、また【 】教の信仰は続けられた。そのため明を建国し中国を統一した【 】は、北方の辺境地域に自分の子弟を王として配備して北元に備えた。その中でとくに有力だったのは王である。この【 】王は元の都大都を本拠地とした。燕王の本拠地【 】は現在の北京である。

 【 】の乱を指導して【 】年に明を建国した【 】(シュゲンショウ)は、「一世一元(イッセイチゲン)制」をとった。この「【 】制」とは一人の皇帝のときに一つの元号を用いる制度で、明の建国者【 】は「洪武」という元号に定めたので、朱元璋を洪武帝と呼ぶ。

 その【 】帝は自作農や地主を民戸と軍戸に分けた。そして民戸を里甲制に組織した。民戸が組織された【 】制は租税を集めるための農村の社会制度である。【 】制の中で土地台帳の「魚鱗図冊(ギョリンズサツ)」と戸籍台帳の「賦役黄冊(フエキコウサツ)」が作られた。土地台帳の「【 】」とは、土地を魚の鱗のように○で記録したことから名づけられ、戸籍台帳の「【 】」は、黄色の表紙だったことからそう呼ばれた。一方、軍戸は衛所制で管理された。軍戸を管理した【 】制は農閑期に軍事訓練をする機関である。このように民戸となった農民は【 】制で、軍戸となった農民は【 】制で管理された。

 さらに【 】帝は皇帝直属のスタッフとして殿閣大学士を設置した。この【 】は宰相に代わる制度である。また中書省を廃止して六部(リクブ)を皇帝の直属の機関にした。皇帝が直接監督するようになった【 】(リクブ)とは、行政官庁である。したがって皇帝が【 】を直接監督するため、明代に皇帝独裁体制が完成したといえる。

 建国者の【 】帝が亡くなると、孫の建文帝が即位したが、2代目【 】帝に対して燕王が靖難(セイナン)の変を起こした。この【 】の変は燕王による謀反であったが、燕王が勝利して1402年に3代目皇帝永楽帝として即位した。3代目【 】帝は自分の本拠地大都を北京に改めて、その【 】に都を移した。【 】帝は【 】の変という謀反によって即位したので儒学を保護する方針をとった。その結果、『四書大全』・『五経大全』などが作られた。『【 】』は四書の注釈書で、明代に官学になった朱子学が四書を重視していた。

 

 

 

 

ワンフレーズ・チェック

(1)          【 】年に紅巾の乱の指導者【 】が明を建国した。

(2)          朱元璋は【 】帝として即位し、農民を【 】制と【 】制で支配した。

(3)          里甲制の下で、土地台帳の「【 】」と戸籍台帳の「【 】」が作成された。

(4)          洪武帝は宰相を廃止して【 】を設置した。

(5)          【 】帝は六部を皇帝直属として、皇帝独裁体制を完成させた。

(6)          明の建国者は【 】帝、2代目【 】帝、3代目【 】帝である。

(7)          【 】の変で勝利した【 】王は永楽帝として即位し、【 】に遷都した。

(8)          永楽帝は儒学を保護し、四書の注釈書である『【 】』などを編纂させた。

(9)          明代では儒学の一派である【 】学が国学とされた。