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中国史官吏登用制度  2008年関西学院大学 商

2011年07月31日 | 復習用入試問題

次の文中の下線部に関する問いに答え,最も適当な記号1つをマークしなさい。

 漢代の官僚任用制度である郷挙里選は,地方豪族が登用されるなどの弊害が多くなったので,魏においては�九品中正という制度が採用された。その一方,大土地所有が進行する中,�南北朝時代の各王朝は�土地政策を講じた。隋の文帝は,九品中正を廃止して科挙制を実施し,財政・軍事の基盤を固め,中央集権に努めた。隋から�唐の前半期は,律令制度に基づき運営を行う中央集権的なシステムがとられた。唐の統治体制の根本は,前代以来の�均田制・租庸調制・府兵制の3つの柱からなっていた。この律令体制を支持・運営したのが,�三省・六部を中心とする中央官制である。玄宗の時代を境に,藩鎮の割拠や財政の逼迫を来たし,780年,租庸調制にかえて�両税法を採用するなどしたが,10世紀初めに�唐は300年近くにわたる歴史の幕を閉じた。
 960年に�宋が建国され,太宗の時代に中国を統一した。宋は文治主義を採用し,科挙制度を充実させるとともに,皇帝の親衛軍の強化をはかった。11世紀後半,王安石は宰相として,軍事・財政の危機を克服するため,�新法と呼ばれる富国強兵の諸政策を実施した。

[問 い] 
� 九品中正に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.地方に中正官が置かれた。
b.この制度を始めたのは曹操である。
c.この制度によって特定の地方豪族が上級官職を独占するようになった。
d.官僚志望者を,9つの等級をつけて推薦した。

� 南北朝に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.劉裕は東晋に代わって宋を建てた。
b.司馬炎は建康で晋を復興した。
c.鮮卑の拓跋氏は北魏を建て華北を統一した。
d.宇文氏は北周を建てた。

� 晋が実施し,後の土地制度につながった政策はどれか。
a.限田法 b.均田制 c.井田制 d.課田法

� 唐の第2代の太宗が,その主力を服属させた集団はどれか。
a.エフタル b.羌 c.東突厥 d.ウイグル

� 均田制・租庸調制・府兵制に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.均田制では,永業田と口分田が支給された。
b.租では,主として絹が徴収された。
c.府兵の徴集は折衝府によって行われた。
d.役には,軽労働として雑徭があった。

� 三省・六部の中で,詔勅を起草した機関はどれか。
a.吏部 b.中書省 c.礼部 d.尚書省

� 両税法に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.夏と秋の2回徴税した。 b.明代後半まで実施された。
c.穀物での納税が原則であった。 d.宰相である楊炎が提案した。

� 唐の出来事を年代順に並べたものはどれか。
a.貞観の治 → 武韋の禍 → 開元の治 → 安史の乱 → 黄巣の乱
b.武韋の禍 → 開元の治 → 安史の乱 → 貞観の治 → 黄巣の乱
c.開元の治 → 安史の乱 → 貞観の治 → 武韋の禍 → 黄巣の乱
d.安史の乱 → 武韋の禍 → 開元の治 → 貞観の治 → 黄巣の乱

� 宋の建国以後に周辺地域で起こった出来事はどれか。
a.雲南における大理の成立 b.東北地方における渤海の滅亡
c.朝鮮における新羅の滅亡 d.西北地方における西夏の成立

� 新法に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.市易法では,中小商人への低利の貸付を行った。
b.均輸法は,物価を安定させることを目的とした。
c.保甲法は,農村における治安維持を目的とした。
d.青苗法は,免役銭によって力役従事者を雇用した。


【解答2】 
� b � b � d � c
� b � b � c � a
9 d �0 d


中国史諸制度の歴史  2008年 名古屋大学 情報文化・文

2011年07月31日 | 復習用入試問題

次の文を読んで以下の問に答えなさい。

 南北朝を統一した隋,およびその後をうけた唐は,ともに北朝系の王朝であり,その国家体制は基本的に�北朝のそれを継承したものであった。均田制や府兵制はその端的なあらわれであるし,科挙制にしても,やはり北朝を通じて成長してきた反門閥主義を制度化したものと考えることができよう。だが唐朝の根幹をなしたこれらの諸制度は,建国より百年もたっていない7世紀末,則天武后が政権を掌握し,一時的に唐朝が断絶するという武周革命のころより,はやくも崩壊へと向かいはじめる。�均田制を前提とする府兵制はしだいに維持しがたくなり,8世紀前半の玄宗期に至り,全面的に廃棄されて募兵制となるし,均田制に対応する税制,租庸調制も,8世紀後半には�両税法に切りかえられた。また�科挙にしても,当初は秀才,明経科が重んじられていたが,武后の時より詩文の能力を試みる進士科が特に重んじられるようになり,破格の人材抜擢がさかんとなった。則天武后の政権掌握が,単なる外戚革命ではなく,社会の変化を政治的に表現したものと考えられるのは,おおよそこうしたわけなのである。

問1 下線部�について。均田制(a),府兵制(b)は,それぞれ北朝のどの王朝に由来するものかを答えなさい。

問2 下線部�について。府兵制はどのように均田制を前提としているのか,説明しなさい。

問3 下線部�について。両税法とはどのようなものか,またそれは均田制の崩壊とどのように対応しているのか,説明しなさい。

問4 下線部�について。同じ科挙といっても,官僚登用制度中におけるその位置づけは,唐代と宋代で大きな違いがあるが,その違いとはどのようなものか,説明しなさい。


【解答2】 
問1 (a) 北魏 (b) 西魏
問2 唐制では全国の丁男[成年男子]より府兵を選抜し,装備や糧食は自弁で軍務に当らせた。よってこの府兵制の維持には,自らとその家族を養うに足る土地をもつ丁男がひろく存在していなければならないが,この条件を保証したのが,一般農民に土地を均等給付する均田制であった。
問3 両税法とは夏と秋の収穫期に,現にその地に居住している戸を単位とし,資産に応じた税額を銭納させる税制。これは本籍地の丁男各人より実物を徴収する租庸調制が,均田制の崩壊とともに維持できなくなったため施行された。
問4 唐代の科挙はいわば資格試験で,任官するには別に吏部試に通らねばならなかったし,また科挙を受けずとも,恩蔭などによって高官に至ることが可能であった。一方,殿試が導入された宋代の科挙では,これに合格すればただちに任官できたし,また科挙こそが高官に至るほとんど唯一の途ともなった。


中国諸王朝の対西欧関係 2008年 早稲田大学  社会科学

2011年07月31日 | 復習用入試問題

次の文章を読み,問1~3については,適切な語を記入し,問4~10については,選択肢の中から適切な解答をそれぞれ一つ選び,その記号をマークせよ。

 現在確認できる中国最古の王朝殷を滅ぼした周は,紀元前11世紀頃から,今の西安市付近に都をおいて華北を支配した。続く(A)春秋・戦国時代には,戦乱こそ絶えることはなかったが,域内諸国に共通の文化が拡大し,秦の始皇帝による中国統一の基礎が築かれた。(B)漢の時代に,周辺地域との交流が盛んに行われた結果,域外の情報も中国に伝わるようになり,たとえば,遠いローマ帝国の存在が漢に知られるようになったほどである。
 漢代後の分裂の時代において,中国の諸王朝は周辺の新興国家と積極的に朝貢の関係を結び,みずからの権威を高めることに努めた。三国時代の魏が(イ)邪馬台国の朝貢使節を迎え入れたことや,5世紀に中国の南朝が倭国の王の使いを頻繁に受け入れたことは,中国大陸と日本列島との関係を象徴する出来事であった。
 唐の政治社会制度と仏教文化の影響を強く受けた東アジア地域では,中国を中心とした文化圏が形成された。朝鮮半島では,(C)新羅が唐と結んで百済と高句麗を滅ぼし,仏教文化を繁栄させた。また,日本は遣唐使を中国に送り,唐の文化を積極的に取り入れた。平城京で栄えた天平文化には唐の影響が色濃く残っている。チベットに建国された吐蕃はしばしば唐に侵入したが,9世紀前半には唐と会盟を結んだ。このほか,8世紀の前半に(ロ)雲南地方を統一した南詔は漢字を公用化し,仏教を奨励した。ベトナムも古くから中国と密接な関係にあり,唐はハノイに大総管府と安南都護府をおいて,この地方に対する支配を行った。
 鄭和を指揮官とするインド洋方面への遠征は,明朝の威勢を世界に誇示し,南海諸国の朝貢体制への加入を促した。その結果,中国とインド洋諸国との朝貢貿易が活発になり,中国はこの形式の交流のなかで世界に関する情報を多く入手することができた。しかし,貿易が拡大する一方,明朝はいわゆる倭冠の被害に悩まされた。(D)洪武帝が室町幕府にその対処を求めたことを契機に,日本は中国への朝貢を復活させ,1404年に勘合貿易を開いた。明の重要な朝貢国となった朝鮮は明にならって科挙を整備し,朱子学を導入した。また,ベトナムの黎朝も明と朝貢関係を結び,明の制度を取り入れながら支配を固めていった。やがて世界は本格的な大航海の時代を迎え,16世紀には中国の周辺でも国際商業が繁栄した。貿易の利益を求めるヨーロッパ勢力の進出と新興の交易国家の台頭が本格的に始まると,明を中心とする朝貢体制は著しく動揺した。
 しかしながら,(E)直轄領と藩部に分けて広大な領土を支配した清朝は,相変わらず周辺諸国を属国とみなしていた。一方,これらの国々のなかには,清朝との朝貢関係を維持することによって,清朝からの支持を得ることが得策だと判断したものもあった。朝鮮は,正統な中国文化の継承者を目指し,儒教の儀礼を厳格に守った。薩摩の攻撃を受けた琉球は,島津氏に税を支払う一方,清朝にも朝貢を続ける (ハ) 体制を選んだ。このような東アジアの国際情勢のなかで,(F)インドシナ半島の諸国は,清朝に対する服属関係を認めながらも,清朝による実質的な支配を受けることはほとんどなかった。
 交易を求めて東アジアに進出したヨーロッパ諸国に対する清朝の姿勢は,周辺諸国への対応と基本的には変わらなかった。ヨーロッパ人の交易を朝貢とみなした清朝は,来航地・品目・数量などを厳しく制限した。清朝がこのような中華思想に基づく世界認識と政策を見直すようになったのは,1840年に始まる(G)アヘン戦争以降のことである。

問1 下線部(イ)に関連し,魏が卑弥呼に与えた称号を漢字で記入せよ。

問2 下線部(ロ)に関連し,南詔の滅亡後,937~1254年にこの地方を治めた国の名前を漢字で記入せよ。

問3 空欄(ハ)に入るべき最も適切な語を漢字で記入せよ。

問4 下線部(A)に関連し,この時代には諸子百家と総称される多数の学派や思想家が登場した。以下の組み合わせのうち,最も不適切なものはどれか。
a.陰陽家 ―― 李斯 b.農家  ―― 許行
c.名家  ―― 公孫竜 d.縦横家 ―― 蘇秦
e.法家  ―― 韓非

問5 下線部(B)に関連する次の記述のうち,最も適切なものはどれか。
a.高祖は皇帝の位につくと,秦の統一政策を継承し,郡県制を全国に施行した。
b.武帝は統治の安定を図り,漢を圧迫していた匈奴に対し和親策をとった。
c.武帝に派遣された張騫は,大月氏との同盟交渉に成功した。
d.武帝の時代に滅亡した衛氏朝鮮は,中国からの亡命者が建てた国である。
e.朝鮮半島南部に設置された楽浪郡は,漢の政治・文化を東方に広める拠点であった。

問6 下線部(C)に関連する次の記述のうち,最も適切なものはどれか。
a.新羅は唐の威力を借りて,676年に統一国家をつくった。
b.朝鮮半島の大部分を支配した新羅は,慶州に首都をおいた。
c.木造多宝塔を有する仏国寺は新羅時代の代表的な寺院である。
d.新羅は唐と冊封関係を結んだが,律令を取り入れなかった。
e.新羅は唐の骨品制を参考に,独自の官僚制度を整備した。

問7 下線部(D)に関連し,明代の日中関係についての記述のうち,最も不適切なものはどれか。
a.明を苦しめた倭寇は,元代にも見られた。
b.勘合貿易の結果,倭寇が減少した。
c.永楽帝以後,海禁政策が緩められ,日中の民間貿易が盛んになった。
d.将軍足利義満は,朝貢貿易の利益を目的に,遣明船を送った。
e.室町幕府の勢力が衰退すると,倭寇が再び力を増した。

問8 下線部(E)に関連し,清朝が直轄領として統治した地方はどれか。
a.青海 b.チベット c.新疆 d.モンゴル
e.台湾

問9 下線部(F)に関連し,18世紀後半以降の出来事に関する記述のうち,最も不適切なものはどれか。
a.ベトナムでは,西山党の反乱によって黎朝が滅ぼされた。
b.阮福暎はフランスの支援を得て,ベトナムを統一し,阮朝を樹立した。
c.ミャンマーでは,コンバウン朝が原住民の反乱で倒れた後,トゥングー朝が興った。
d.タイのアユタヤ朝を滅ぼしたのはコンバウン朝である。
e.タイのラタナコーシン朝を建てたのは,ラーマ1世である。

問10 下線部(G)に関連し,次の記述のうち,最も不適切なものはどれか。
a.1830年代,中国へのアヘン密輸が増大し,銀が暴騰して清の財政を圧迫した。
b.清はアヘン取締りを強化するため,1839年に林則徐を広州に派遣した。
c.南京条約で,広州での外国貿易を独占した特許商人の組合である公行が廃止された。
d.南京条約で上海,天津,福州,厦門,広州の開港が決まった。
e.アヘン戦争の後,イギリスは中国の行政権が及ばない租界を設けた。


【解答1】 
問1 親魏倭王 問2 大理 問3 両属 問4 a
問5 d 問6 b 問7 c 問8 e
問9 c 問10 d


板書(93)清�太平天国と第二次アヘン戦争

2011年07月31日 | トリオDE世界史

(1)太平天国 �宗教団体�開祖�特徴
�上帝会
�洪秀全
�変質したキリスト教
(2)洪秀全 �出身身分�出身地�キリスト教との関係
�客家
�江西省金田村
�ロバート=モリソンに教わる
(3)太平天国の乱 �年�スローガン�思想
�1850~64年
�滅満興漢
�反儒教
(4)太平天国の乱のポイント �土地制度�反満州�反儒教
�天朝田畝制
�辮髪の禁止
�纏足の禁止
(5)天朝田畝制の特徴3つ
�土地を男女平等に配分
�正教一致の社会制度
�兵農一致
(6)郷勇3つ
�湘勇
�楚勇
�淮勇
(7)郷勇の指導者 �湘勇�楚勇�淮勇
�曽国藩
�左宗棠
�李鴻章
(8)太平天国の乱の時期の鎮圧軍 �中国人地主�清朝の正規軍�租界軍
�郷勇
�八旗は無力
�常勝軍
(9)常勝軍の将軍 �英�米�のちにマフディの乱で戦死
�ゴードン
�ウォード
�ゴードン
(10)太平天国軍の残党 �指導者�軍隊�活躍した場所
�劉永福
�黒旗軍
�阮朝のヴェトナムで反仏闘争に参加
(11)第二次アヘン戦争 �年�フランスの開戦の口実�イギリスの口実
�1856~60年
�フランス人宣教師殺害
�アロー号事件
(12)第二次アヘン戦争 �英国内状況�仏国内状況�清の国内状況
�パーマストン外交(1830~60年)
�ナポレオン3世の第2帝政(1852~70年)
�太平天国の乱(1856~63年)
(13)第二次アヘン戦争の重要年代 �開戦年�天津条約�北京条約
�1856年
�1858年
�1860年
(14)第二次アヘン戦争の英仏軍の進路 �1856年�58年�60年
�広州占領
�天津侵入
�北京で円明園を焼き払う
(15)天津条約 �開港地�公認�北京駐屯
�南京など10港
�キリスト教公認
�外国使節の北京駐屯を認める
(16)北京条約 �開港地�公認�イギリスへの割譲地
�天津を加えて11港
�アヘン貿易の公認
�九龍半島南部を99年間租借を認める
(17)第二次アヘン戦争中のロシア �1858年�1860年�ロシア代表
�アイグン条約
�北京条約
�ムラヴィヨフ
(18)アイグン条約 �年�ロシアへ割譲した地域(以北)�以南
�1858年
�黒竜江以北
�アムール川とスタノヴォイ山脈以南
(19)北京条約 �年�ロシアへの割譲地域�中心都市
�1860年
�沿海州(アムール川以南・ウスリー江(黒竜江)以西
�ウラディオストク
(20)清の開港地 �南京条約�天津条約�北京条約
�上海など5港
�南京など10港
�天津など11港


板書(90)清�全盛期

2011年07月31日 | トリオDE世界史

(1)清の全盛期の皇帝3人
�康熙帝
�雍正帝
�乾隆帝
(2)清の対外関係 �康熙帝�雍正帝�乾隆帝
�ネルチンスク条約
�キャフタ条約
�最大版図
(3)康熙帝の業績 �国内�対ロシア�文化摩擦
�中国統一
�ネルチンスク条約
�典礼問題の発生
(4)中国統一の重要年代 �入関�三藩の乱�台湾征服
�1644年
�1673年
�1683年
(5)康熙帝による中国統一 �1673年�大砲�1683年
�三藩の乱
�フェルビースト
�鄭氏台湾を征服
(6)三藩の乱 �年�反乱の指導者�鎮圧した皇帝
�1673年
�呉三桂
�康熙帝
(7)ネルチンスク条約 �年�ロシア皇帝�清皇帝
�1689年
�ピョートル1世
�康熙帝
(8)ネルチンスク条約 �国境の山脈�国境の川�特徴
�スタノヴォイ山脈(外興安嶺)
�アルグン川
�対等な条約
(9)康熙帝の税制改革 �年�改革�内容
�1711年
�盛世滋生人丁
�丁数を固定
(10)典礼問題 �発生時の皇帝�決着時の皇帝�ローマ教皇
�康熙帝
�雍正帝
�クレメンス11世
(11)典礼問題に関与した修道会 �典礼容認派�典礼否定派2つ
�イエズス会
�ドミニコ会
�フランチェスコ会
(12)典礼問題への対応 �教皇の対応�康熙帝の対応�雍正帝の対応
�イエズス会の活動禁止
�イエズス会以外の布教活動禁止
�キリスト教布教の全面禁止
(13)典礼問題の決着 �雍正帝�宣教師への処置�殉教
�キリスト教布教の全面禁止(布教公認は1858年天津条約)
�マカオ居住は容認
�殉教者はない
(14)雍正帝の業績 �内政�外交�設置した役所
�地丁銀の施行
�キャフタ条約
�軍機処
(15)地丁銀 �皇帝�廃止した税�時期
�雍正帝
�丁税を廃止
�18世紀前半
(16)キャフタ条約 �年�ロシア皇帝�清皇帝
�1727年
�ピョートル2世
�雍正帝
(17)明~清の最高決定機関 �洪武帝�永楽帝�雍正帝
�殿閣大学士
�内閣大学士
�軍機処
(18)清の役所 �藩部の監督�最高決定機関�貿易の独占
�理藩院(ホンタイジが設置)
�軍機処(雍正帝が設置)
�公行(乾隆帝が施行)