FORZA世界史inBLOG

世界史の復習をサポートするブログです

ワークシート(30)中国史(13)モンゴル帝国の拡大

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(30)中国史(13)モンゴル帝国の拡大

 1206年モンゴル高原でテムジンがチンギス=ハンに即位した。【 】とはチンギス=ハンの幼名である。また、可汗(ハン)とはモンゴル民族の皇帝を意味する。【 】年に可汗に即位した【 】は、西北トルキスタンにあったタングート族の西夏を征服し、中央アジアのナイマン部とホラズムを征服した。西北トルキスタンの【 】、東トルキスタンの【 】部、西トルキスタンの【 】を次々と征服した結果、チンギス=ハンがシルク・ロードを征服した。さらに【 】の功績はジャムチを設置してシルク・ロードを発展させた点にある。【 】とはシルク・ロードを東西に行き交うための駅伝制度で、「パイザ」を持った旅行者が利用できた。「【 】」は通行手形である。またチンギス=ハンは「千戸万戸制」を採用した。この「【 】制」は平時の生活をしている部族の単位を戦時にも活用できる利点があった。こうして【 】によってモンゴル帝国が建設された。
 2代目可汗に即位したオゴタイ=ハンは、1234年に華北の金を征服した。【 】年の金征服は【 】自身が行っている。また、さらにバトゥに命じてロシアからポーランドまで遠征させた。これを「【 】の征西」という。1240年ロシアのキエフを攻略すると、翌【 】年のリーグニッツの戦いでポーランドとリトアニアの連合軍に圧勝した。【 】の戦いは別名でワールシュタットの戦いともいう。この【 】とは「地に塗られた土地」という意味である。しかし、2代目可汗の【 】が亡くなったため、征西を行っていた【 】は重要な会議であるクリルタイに出席するため帰国した。【 】という会議は可汗を決める会議である。1240年にロシアの【 】を攻略した後にバトゥが建てた国がキプチャク=ハン国である。この【 】国は約250年間ロシアを支配した。
 4代目可汗に即位したのはモンケ=ハンであった。【 】は弟フラグに命じてアッバース朝を1258年に征服した。モンケ=ハンの命を受けた弟【 】はアッバース朝の都バグダッドを攻略した。【 】年のバグダッド攻略で【 】朝は滅亡した。都であった【 】は人口が激減して輝きを失った。アッバース朝を征服した【 】はイラン・イラクにイル=ハン国を建てた。フラグが建てた【 】国はやがて14世紀に全盛期を迎えた。また、4代目可汗【 】は別弟のフビライに命じて朝鮮半島にあった高麗を征服した。
 5代目可汗に即位したフビライ=ハンは都をカラコルムから大都に遷都し、1271年にモンゴル高原と華北をあわせて元を建国した。新都【 】は現在の北京である。元が建国した【 】年の段階では南宋は抵抗を続けていたが、1279年山(ガイザン)の戦いでついに南宋は滅亡した。すなわち【 】年に成立した元は、【 】年の【 】の戦いで中国統一を達成した。しかし、【 】が5代目可汗に即位したことに反対して2代目可汗【 】の子ハイドゥが反乱を起こした。このハイドゥの乱は30年以上も続き、【 】の乱の結果、モンゴル帝国はロシアの【 】国、イラン・イラクを支配する【 】国、モンゴル高原と中国全土を支配する【 】に分裂した。





ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】年可汗に即位した【 】は、【 】・【 】・【 】を征服してシルク・ロードを支配した。
(2) チンギス=ハンは【 】という駅伝制を設置してシルク・ロードを発展させた。
(3) 【 】は親征して【 】年に金を滅ぼして華北を征服した。
(4) オゴタイ=ハンの時【 】は征西し、1241年【 】の戦いで【 】・【 】連合軍を破った。
(5) 【 】が死ぬとバトゥは【 】に出席するために急遽帰国し、その後ロシアに【 】国を建てた。
(6) モンケ=ハンの時【 】は【 】年に【 】を攻略してイラクにあった【 】朝を征服した。
(7) 5代目可汗に【 】が即位したことに反対して【 】の乱が起き、モンゴル帝国は完全に分裂した。
(8) フビライ=ハンは【 】年に元を建国し、都を【 】から【 】に遷都した。
(9) フビライ=ハンは【 】年に山の戦いで【 】を滅ぼして、中国全土を支配した。

ワークシート(29)中国史(12)隋唐宋の社会経済

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(29)中国史(12)隋唐宋の社会経済

 隋と唐は長安を都とした。都の【 】は貴族が生活する政治都市であった。とくに唐代になると都の【 】は人口が100万人を越え、世界各地から人々が訪れる国際都市でもあった。たとえばネストリウス派キリスト教が伝わり、「大秦景教流行中国碑」が建てられた。この【 】派キリスト教はエフェソス公会議で異端とされた。また、長安で異邦人が住む場所を「蕃坊(バンボウ)」という。「【 】」の「坊」とは直角に交わる道が作る区画をさす。一方、海上貿易も発達した。イスラム教商人が広州に訪れたが、その【 】には市舶司が置かれた。広州におかれた【 】とは貿易を管理する役所である。
 960年に成立した宋(北宋)の都は開封である。都の【 】も100万を越える大都市だが、商業都市として発達した。唐の都長安が貴族の住む【 】都市であったのと対照的に、宋の都【 】は商人が住む【 】都市であった。開封には「酒楼(シュロウ)」や「瓦市(ゴイチ)」があったが、「【 】(シュロウ)」は現在のホテルで、「【 】(ゴイチ)」は市場である。その他の都市も商業が発展した。唐代で都市の外に開かれた草市から「鎮」という都市が成立していった。すなわち「【 】」は地方の商業都市で、「行(コウ)」・「作(サク)」という組合が商業を独占していた。「【 】(コウ)」は商人の組合で、「【 】(サク)は手工業者の組合である。また、これらの商業都市を結びつける広域に活躍する商人を「客商」という。「【 】」といった広域商人は各地の特産物を運んで利益を上げた。とくに白磁(ハクジ)・青磁(セイジ)という陶器を製造した景徳鎮が有名であり、この【 】では現在でも陶器を製造している。【 】は唐代に広州だけに置かれた貿易管理の役所だが、宋代になると、【 】に加えて泉州にも置かれた。
 南宋の都は臨安に置かれた。都の【 】は現在の杭州である。南宋では中国人が華北から大量に移住した。そのため江南地方は飛躍的に発展し、とくに長江下流域では「江浙(コウセツ)熟すれば天下足る」といわれるほど、【 】地方は中国の穀倉地帯になった。とくに南ヴェトナムのチャンパから持ち込まれたチャンパ米が栽培され、二年三毛作で高収益を上げた。南ヴェトナムの【 】を中国では「占城」といったので、【 】米を占城米ともぃう。
 唐代780年に両税法が施行された。【 】法は銅銭で納税したため貨幣経済が急速に発展した。唐代では使われ始めた「飛銭」は手形であったが、北宋では「交子」が使用された。この「【 】」は世界初の紙幣である。南宋では「会子」が、金では「交鈔(コウショウ)」という紙幣が使用された。しかし、金は「【 】」を印刷しすぎたためインフレに苦しんだ。










ワンフレーズ・チェック
(1) 唐の都長安には【 】派キリスト教が伝わり「【 】碑」が建てられた。
(2) 【 】は政治都市として、北宋の【 】や南宋の【 】は商業都市として人口100万人を越えた。
(3) 宋代の地方都市である【 】には商人組合の【 】や手工業組合の【 】が成立した。
(4) 【 】は白磁や青磁を特産物として発展した。
(5) 宋代になると長江下流地域は穀倉地帯として「【 】」といわれるほど発展した。
(6) 江南地方には南ヴェトナムから「【 】米」が持ち込まれた。
(7) 唐では【 】という手形が、北宋で【 】、南宋で【 】、金で【 】の紙幣が使用された。


ワークシート(28)中国史(11)金・南宋

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(28)中国史(11)金・南宋

 12世紀になると宋(北宋)で徽宗(キソウ)が即位した。この【 】は『桃鳩図(トウキュウズ)』などの作品を残した画家でもあった。一方、満州では1115年に女真族の完顔阿骨打(カンガンアクダ)が金を建国した。満州の【 】族は半農半牧の民族である。宋の皇帝【 】(キソウ)は、【 】(カンガンアクダ)が建国した金と結んで、遼から燕雲十六州を奪回しようと考えた。しかし、金が遼を攻撃すると、宋は金を裏切ったため、金は単独で【 】を滅ぼし、さらに宋の都開封を攻撃した。1126年~27年のこの事件を「靖康の変」という。この「【 】の変」で、金は宋の都【 】を攻略し、宋の皇帝【 】とその子欽宗は3000人の官僚とともに金に連れ去られた。金はそのまま華北一帯を征服したが、徽宗の次男であった高宗は、多くの中国人とともに江南に逃れて南宋を建国した。南宋の都は臨安だが、都【 】は現在の杭州である。
 満州と華北を支配する【 】族の【 】と、江南で建国した中国人王朝の【 】とが対抗しあう状況がしばらく続いた。やがて南宋の交戦派将軍の岳飛(ガッピ)が和平派の秦檜(シンカイ)に暗殺されたため、1142年金と南宋は「紹興(ショウコウ」の和」を結んだ。「【 】の和」では南宋の立場は臣下で、金が君主の立場と定められた。
 女真族の金も二重統治体制を採用した。【 】族に対しては「猛安謀克(モウアンボウコク)」という制度で統治した。この【 】は別に「ミンガン・ムケ」ともいう。一方、華北にいる中国人に対しては州県制で統治した。金などのように自分の出身地域を維持しながら中国の一部または全部を支配する王朝を「征服王朝」という。遼が最初の「【 】王朝」で、金も「【 】王朝」である。また、宋は【 】年~1127年の「【 】の変」で華北を失った。そのため、「【 】の変」以前を北宋、以後を南宋と呼んで区別する。
 北宋では儒学が飛躍的に進化した。北宋の儒学を宋学という。この【 】を興した周敦頤(シュウトンイ)は『大極図説』で宋学の世界観を示した。宋学の創始者【 】を継承したのは程(テイコウ)・程頤(テイイ)の兄弟である。【 】・【 】の二人を「二程」と呼ぶ。さらに南宋になると、朱子学が成立した。【 】学の創始者は朱熹(シュキ)で、「大義名分論」を展開した。また、それまでの儒学は「五経」を重視したのに対し、朱子学を創始した【 】は「四書」を重視した。「【 】」とは「大学」・「中庸」・「論語」・「孟子」の4つの古典である。
 また、道教も金と南宋の時代に飛躍的に発展した。華北を支配した【 】では王重陽が全真教を始めた。江南を支配した【 】では正一教が成立した。南宋で成立した【 】教は張陵(チョウリョウ)の子孫が興したものである。





ワンフレーズ・チェック
(1) 1115年【 】族の【 】が満州で金を建国した。
(2) 【 】年~1127年の「【 】の変」で、宋の皇帝【 】と【 】は金に拉致された。
(3) 「靖康の変」で金は出身地の【 】と征服した【 】を合わせて支配する【 】王朝になった。
(4) 金は満州の女真族に対して「【 】」で統治し、華北の中国人を【 】制で統治した。
(5) 「【 】の変」で江南に生き延びた高宗は都を【 】において【 】を建国した。
(6) 宋学の創始者【 】は『【 】』を著して儒学を飛躍的に発展させた。
(7) 周敦頤を受け継いだ「二程」とは【 】と【 】の兄弟である。
(8) 南宋になると【 】が登場して朱子学を興した。朱子学では「【 】」を重視した。
(9) 「四書」とは、【 】・【 】・【 】・【 】の古典を指す。
(10) 華北では【 】が【 】教を興し、江南では【 】が成立して、道教が飛躍的に発展した。

ワークシート(27)中国史(10)五代十国と北宋・遼の建国

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(27)中国史(10)五代十国と北宋・遼の建国

 907年朱全忠が唐を滅ぼして後梁を建国した。この【 】から始まる5王朝の時代を五代十国という。そのころ、916年契丹(キッタン)族の耶律阿保機(ヤリツアホキ)がモンゴル高原で遼を建国した。【 】年にモンゴル高原で遼を建国した【 】(ヤリツアホキ)は、926年に渤海を征服した。【 】(ヤリツアホキ)は渤海征服直後になくなった。さらに、遼は五代十国の3番目の王朝である後晋の建国を助けて936年に燕雲十六州を獲得した。【 】年に獲得した燕雲十六州は現在の北京周辺の土地である。なお、【 】を遼に譲った後晋の建国者は石敬瑭である。遼はモンゴル高原を支配するために北面官を、中国の一部である【 】を支配するために南面官を置いた。すなわち【 】官はモンゴル高原の【 】族を支配する役所で、【 】官は燕雲十六州の中国人を支配するための役所である。遼がとった【 】族と中国人を別々に支配する方法を二重統治体制という。以後、燕雲十六州を【 】から奪い返すことが、歴代の中国皇帝にとっての悲願になった。
 五代十国の最後の王朝は後周であった。960年この【 】を倒したのが趙匡胤(チョウキョウイン)で、都を開封において宋(北宋)を建国した。都の【 】は商業都市として繁栄した。宋を建国した【 】は、武人を政治の舞台から追放して文治主義をとった。この【 】主義とは、科挙という官吏登用制度で採用した官僚に政治を任せるものである。宋代には皇帝自ら試験を行う殿試が採用されて、官吏登用制度である【 】は完成した。
しかし、【 】主義をとって武人を追放した結果、宋の軍事力は著しく低下したので、消極的外交政策をとった。そのためモンゴル高原の遼と1004年に「澶淵の盟」を結んで和睦した。「【 】の盟」では宋の立場は兄、遼を弟とした。また、チベット系のタングート族が建てた西夏とも1044年に「慶暦の和」を結んだ。「【 】の和」では宋の立場は君主で、【 】は臣下とされた。その代わり、宋は【 】年の「澶淵の盟」や【 】年の「慶暦の和」で国境貿易を約束し、絹など多くの贈り物を与えねばならなかった。
  宋が採用した【 】外交政策の結果、宋の財政支出は大きくなったので、王安石が財政再建を行った。【 】が行った財政再建策を「王安石の新法」という。「【 】の新法」は均輸法や平準法、保甲法や保馬法などである。しかし、この「【 】の新法」に反対する勢力は司馬光を中心に抵抗した。【 】を中心とする反対派を「旧法党」という。なお、財政再建反対派の「【 】党」の指導者【 】は、『資治通鑑』という歴史書を書いた。『【 】』は編年体で書かれた最初の歴史書である。年代順に歴史を書く方法を編年体といい、この【 】体に対して、人物や出来事中心に歴史を書く方法を紀伝体という。






ワンフレーズ・チェック
(1) 契丹族の遼は【 】年に【 】が建国し、【 】年に渤海滅ぼし、【 】年燕雲十六州を得た;
(2) 契丹族の【 】は【 】体制をとり、【 】官と【 】官を置いてそれぞれを支配した、
(3) 中国歴代皇帝にとって【 】族の遼に奪われた【 】を奪回することが悲願になった。
(4) 【 】年に【 】が宋を建国した。都の【 】は商業都市として繁栄した。
(5) 宋は【 】主義をとり、皇帝が行う最終試験である【 】を始めて科挙を完成させた。
(6) 宋は【 】外交政策をとった。
(7) 宋は遼との間で【 】年に「【 】の盟」を結んだ。宋を【 】、遼を【 】という立場をとった。
(8) 宋は西夏との間で【 】年に「【 】の和」を結んだ。宋を【 】、西夏を家臣という立場をとった。
(9) 宋が行った財政再建のための改革を「【 】の新法」といい、反対派を【 】党と呼んだ。
(10) 旧法党の指導者【 】は『【 】』という歴史書を著した。

ワークシート(26)中国史(9)隋唐 ③ 唐代後期と唐末五代

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(26)中国史(9)隋唐 ③ 唐代後期と唐末五代

 「武韋の禍」を終わらせて皇帝に即位した玄宗は、はじめのうち善政を行ったので、この【 】の善政を「開元の治」という。しかし、やがて楊貴妃を寵愛してその一族を重んじるようになると、節度使の有力者安禄山が反発して反乱を起こした。【 】とその部下の史思明が起こした反乱は755年から763年まで続く大反乱になった。【 】年に始まったこの反乱を安史の乱という。皇帝の【 】は愛妃【 】とともに都の長安を追われたが、二人の悲哀を白居易は『長恨歌』で歌った。『【 】』の悲歌を書いた白居易は白楽天ともいう。南詔(ナンショウ)は【 】の乱の混乱に乗じて四川に侵入し、吐蕃(トバン)は【 】の乱の混乱に乗じて都の【 】に攻め込んだ。四川に侵入した【 】(ナンショウ)はビルマ系の民族で、長安を攻略した【 】(トバン)はチベット系の民族である。唐は北方のウイグルの力を借りて【 】の乱をようやく鎮圧することができた。唐を支援した【 】はトルコ系の民族である。
このように唐は周辺の民族の侵入を受けただけでなく、安史の乱によって大きく変質し、均田制も崩壊した。安史の乱後、唐は節度使を辺境だけでなく中心地域にも設置した。この中心地域にもおかれた【 】を藩鎮という。この【 】のなかには唐の中央政府の命令に従わない者も多かった。一方、安史の乱による混乱で唐は均田制を行えなくなった。そのため【 】制と結びついている租庸調制も実施できなくなった。そこで780年皇帝の徳宗のとき、宰相の楊炎が両税法を定めた。この【 】法は安史の乱後実施できなくなった税制の【 】制に代わる新しい税制である。【 】年から始まった【 】法の特徴は、現住所に対して課税し、夏と秋の2回納税し、銅銭で納める(銭納)という点にある。宰相【 】が考えた【 】法によって、唐は税制の建て直しに成功して滅亡を防いだ。
一方、安史の乱の混乱により、それまで唐の政治を担ってきた貴族は没落し、代わって新興地主層が台頭した。この新興地主層を形勢戸という。この【 】が経営する土地制度を佃戸(デンコ)制といい、【 】(デンコ)制のもとで働く小作人は佃戸という不自由な農民であった。貴族と違って形勢戸には免税特権はなく、形勢戸は一般に自分の大土地で生活する在地の地主である。
875年塩の密売人である黄巣(コウソウ)の乱が発生した。この【 】(コウソウ)の乱により唐はいっきに衰退し、多くの藩鎮が軍閥として乱立した。そしてついに【 】年に起きた黄巣の乱を鎮圧した朱全忠が唐を滅ぼした。唐の滅亡は907年で、唐を滅ぼした【 】は後梁(コウリョウ)を建国した。朱全忠が【 】を建国した後、後梁も含め5つの王朝が成立したのでこの時代を五代十国という。この【 】という時代は軍閥が乱立する乱世で、武人による武断政治が行われた。
このうち960年に石敬瑭(セキケイトウ)は後晋を建国した。【 】(セキケイトウ)が後晋を建国するとき北方遊牧民族の契丹(キッタン)族の遼の力を借りた。【 】族の遼はその代償として万里の長城より南側に位置する燕雲(エンウン)十六州を獲得した。【 】を獲得した遼は、モンゴル高原を支配しながら中国の一部を支配する征服王朝と呼ばれる。【 】は歴史上最初の【 】王朝である。


ワンフレーズ・チェック
(1) 玄宗ははじめ「【 】」という善政を行ったが、愛妃【 】に溺れて政治が乱れた。
(2) 節度使の【 】は755年に【 】の乱を起こした。その結果、唐は大きく変質した。
(3) 安史の乱以前の税制は【 】制であったが、乱後の【 】年に宰相【 】が【 】法を開始した。
(4) 安史の乱以前、節度使は地方に設置されたが、乱後は【 】が中心地域にも置かれた。
(5) 両税法の特徴は年に【 】回【 】で納税し、税は【 】で納めた点である。
(6) 安史の乱後に出現した【 】は新興地主層で、【 】制による大土地所有を行った。
(7) 【 】年に発生した【 】の乱を鎮圧した朱全忠は、【 】年に唐を滅ぼして【 】を建国した。
(8) 後梁から始まる【 】という時代には軍閥が乱立し、武人による【 】政治が行われた。
(9) 【 】年【 】を建国した石敬瑭は建国の代償として遼に【 】を譲った。
(10) 出身地方を維持しながら中国の一部または全部を支配した王朝を【 】王朝という。

ワークシート(25)中国史(8)隋唐 ② 東アジア文化圏

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(25)中国史(8)隋唐 ② 東アジア文化圏

 唐の2代目皇帝の太宗も高句麗遠征には失敗した。【 】の後を継いで3代目皇帝に即位した高宗は、まず朝鮮半島南東部の新羅と結んで半島南西部の百済を滅ぼした。【 】を征服すると、次いで朝鮮半島北部の高句麗征服にも成功した。征服された【 】の人々は北に逃げて渤海を建国した。この【 】は日本とも交流を持ち、「海東の盛国」と呼ばれた。ついに【 】を征服した3代目皇帝【 】は、高句麗の後に安東都護府を置いた。この【 】都護府は現在の平壌(ピョンヤン)に置かれたが、唐と同盟していた【 】が【 】(ピョンヤン)まで北上したため、安東都護府は遼東(リョウトウ)に撤退した。この結果、朝鮮半島は新羅によって初めて統一された。初の半島統一王朝になった【 】は都を慶州に置いた。都の【 】の貴族制度を骨品制という。統一によってこの【 】制は半島全体に広がった。
 3代目皇帝【 】のときに唐は広大な領域を支配する大帝国に成長した。唐は征服した地方に6つの都護府をおき、征服した人々に自治を認めた。すなわち、唐はこの【 】を通じて征服民に自治を認める間接統治を行ったのである。
 高宗が亡くなると妻の武后が実権を握り、ついに【 】は則天武后をして皇帝に即位した。この【 】は中国史上唯一の女帝で、則天武后は国を奪って国号を周とした。さらに韋后も政治に介入して政治を乱したので、この【 】と【 】の二人の女性が政治を混乱させた時代を「武韋の禍」という。この「【 】」という政治混乱を韋后を殺して収束し、唐を復活させた皇帝が玄宗である。この【 】が行った善政を「開元の治」と呼ぶ。しかし、この「【 】」の時代に中央政治が乱れたため、地方にあって間接統治を行っていた都護府の制度は崩壊した。【 】が崩壊したため、唐は都護府に代わって辺境の地方に節度使を配備した。この【 】は辺境を防衛するための軍団を指揮した。
 仏教が中国に伝えられたのは魏晋南北朝時代であった。唐代になると中国僧の玄奘がインドに仏教を学びに行った。中国僧【 】が学んだのはナーランダ僧院で、ハルシャ=ヴァルダーナ王にも会っている。玄奘が書いた旅行記『大唐西域記』には【 】王を「戒日王」と記録している。次いで中国僧の義浄もインドの【 】僧院に学んだが、すでに玄奘が『【 】』の中で「【 】」と記録したハルシャ=ヴァルダーナ王は亡くなっており、インドの仏教も廃れていた。そこで中国僧【 】はスマトラ島のシュリヴィジャヤ王国に渡った。そして【 】王国の都パレンバンで仏教の戒律を学んで帰国した。その旅行記『南海寄帰内法伝』の中で【 】王国を「室利仏逝」と記録している。すなわち「【 】」とはシュリヴィジャヤ王国の中国名である。






ワンフレーズ・チェック
(1) 3代目皇帝【 】は朝鮮半島の【 】と結んで、半島北部の【 】を滅ぼした。
(2) 【 】都護府から平壌を奪った【 】は朝鮮半島初の統一王朝である。
(3) 【 】制は新羅の都【 】の身分制度である。
(4) 唐は征服した地方に【 】をおいて、自治を認める間接統治をした。
(5) 高宗が亡くなると「【 】」により中央政治が乱れ、都護府は廃止された【 】が配備された。
(6) 「武韋の禍」とは唐に代わって【 】を建てた女帝【 】と韋后による政治の混乱である。
(7) 【 】を殺して唐を復活させた【 】は「【 】」という善政を行った。
(8) 中国僧【 】はインドの【 】僧院で仏教を学び、面会した【 】王を「【 】」と記録した。
(9) 中国僧【 】はシュリヴィジャヤ王国の都【 】で学び、この国を「【 】」と記録した。

ワークシート(24)中国史(7)隋唐 ① 建国期

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(24)中国史(7)隋唐 ① 建国期

 581年楊堅は大興城を都として隋を建国した。隋の建国者【 】が都を置いた【 】は後の長安である。【 】の建国者である楊堅は即位して文帝となった。さらに楊堅は【 】年に隋を建国した後、589年に南朝の陳を滅ぼして中国を再統一した。文帝は均田制を実施した。この【 】制という土地制度によって土地を分配された農民は、租庸調制という税を納めるか、府兵制という兵制によって兵士になるかに分けられた。この土地制度である【 】制と税制である【 】制と兵制である【 】制は次の王朝である唐まで受け継がれた。また、選挙という官吏登用制度を始めたのも隋からである。この【 】はのちに科挙に発展した官吏登用制度である。
 隋の文帝すなわち【 】の後を継いだのは煬帝(ヨウダイ)である。【 】(ヨウダイ)は黄河と長江とを結ぶ大運河を建設した。【 】の建設は農民に大きな負担となったが、南北朝時代に発展し始めた長江下流域と政治の中心である黄河流域とを結ぶ役割を果たした。また【 】(ヨウダイ)は朝鮮北部にあった高句麗への遠征を行った。しかし、3回に及ぶ【 】への遠征は全て失敗に終わった。煬帝が行った【 】の建設の負担に加えて3回の【 】遠征の失敗によって各地で反乱が起こり、【 】年に建国した隋は40年足らずで滅亡した。
 反乱によって滅亡した【 】に代わって618年唐が成立した。都は長安である。【 】年に成立した唐の建国者は李淵(リエン)で、この【 】は皇帝に即位して高祖になった。その子の李世民は2代目皇帝に即位して太宗となった。2代目皇帝【 】は優れた政治を行ったので、その政治を「貞観(ジョウガン)の治」と呼ぶ。李世民すなわち【 】はその「【 】(ジョウガン)の治」のなかで、三省六部(サンショウリクブ)という中央官庁を設置した。この【 】の三省とは、中書省(チュウショ)・門下省(モンカ)・尚書(ショウショ)省である。これら三省それぞれの役割は、【 】(チュウショ)省が立案、【 】(モンカ)省が審査、【 】(ショウショ)省は行政実務である。行政実務を扱う【 】省の下に六部が置かれ、分担して実務に当たった。また、科挙も本格的に実施された。この【 】で儒学の素養がある人物を試験によって官吏に登用したが、唐の政治は貴族が中心であった。したがって、唐の時代を【 】政治の時代という。
 一方、モンゴル高原では552年に突厥(トッケツ)が成立した。この【 】(トッケツ)はトルコ系の民族で、モンゴル高原と西域の両方を支配する大帝国であった。建国間もない【 】(トッケツ)はササン朝ペルシアのホスロー1世と中央アジアの遊牧民であるエフタルを挟撃(キョウゲキ)して滅ぼした。しかし、隋の時代にこの突厥は【 】高原を支配する東突厥と、【 】を支配する西突厥に分裂した。




ワンフレーズ・チェック
(1) 隋は【 】年に成立し、南朝の王朝である【 】を征服して中国を再統一した。
(2) 隋の建国者は【 】で文帝として即位し、都を後の長安である【 】においた。
(3) 隋の【 】は【 】と【 】を結ぶ大運河を建設した。
(4) 隋の【 】は3度に及ぶ【 】遠征に失敗し、各地で反乱が発生して滅亡した。
(5) 【 】年に成立した唐の建国者【 】は都を【 】においた。
(6) 李世民は【 】として即位して「【 】の治」という善政を行った。
(7) 唐の行政組織を【 】といい、三省とは【 】省・【 】省・【 】省である。
(8) 隋の時代に始まった【 】という官吏登用制度は、唐になると【 】に発展した。
(9) モンゴル高原で552年に成立したトルコ系の【 】は西域も支配する大帝国に発展した。
(10) 建国間もない突厥は【 】朝ペルシアのホスロー1世と組んで中央アジアの【 】を挟撃した。

ワークシート(21)中国史(4)後漢~三国時代

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(21)中国史(4)後漢~三国時代

 漢の外戚であった王莽は新を建国した。しかし、新を建国した【 】は周の時代の政治を再現しようとしたためにすぐに滅亡した。この【 】を滅亡させた反乱は赤眉の乱であった。【 】の乱を指導した劉秀は25年に後漢を建国し、都を洛陽に定めた。後漢の建国者【 】は即位して光武帝と呼ばれる。【 】年に成立した後漢は前漢と同じ政治の仕組みを採用していた。
 後漢がもっとも盛んだったのは100年ころの和帝の時代である。この【 】は班超を西域都護に任命して西域諸国を治めさせた。西域都護に任命された【 】は部下の甘英をさらに西方に派遣したことで知られる。旅行家【 】は安息から条支国に至り大海まで到達したという記録が『後漢書西域伝』に書かれている。なお、西域都護の【 】の兄は班固である。この【 】は『後漢書』を書いた歴史家である。
 また、後漢の時代、166年に大秦王安敦の使者が日南郡に派遣されてきた。この【 】王【 】とは、ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスである。すなわちローマ皇帝【 】の中国名は安敦である。
 後漢はやがて儒学者と宦官・外戚が対立して衰退し、184年に発生した黄巾の乱による混乱の中で滅亡した。この後漢末【 】年に発生した【 】の乱は大農民反乱で、張角が指導した太平道という宗教団体と、張陵が指導した五斗米道という宗教団体が中心になって起こした。とくに張陵が指導した【 】はのちに道教の源流になっていった。道教は五斗米道の指導者【 】の子孫たちによって始められたのである。
 184年に発生した【 】の乱以降、中国は群雄割拠の混乱期になった。分裂した中国はやがて三国にまとまったので三国時代と呼ぶ。【 】時代の三国とは魏・呉・蜀で、220年魏の文帝が後漢を滅ぼした。後漢を滅ぼした【 】の将軍だった司馬炎は280年に呉を滅ぼして中国を再統一した。この【 】が建国した王朝を西晋という。
このように中国が政治的に混乱した背景には地球の寒冷化が考えられている。その結果、北方のモンゴル高原から遊牧民族がこの時期に続々と中国に移住してきた。そのため、中国はいっそう混乱した。




ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】の乱を指導した【 】は新を滅ぼして後漢を建国した。
(2) 【 】年ころ和帝の時代、西域都護に【 】が任命され、部下の【 】は条支国に至った。
(3) 166年にローマ皇帝【 】の使者が後漢の【 】郡に来た。
(4) 後漢は184年に起こった【 】の乱で大混乱となり、【 】年に滅亡した。
(5) 【 】が指導した太平道や【 】が指導した五斗米道が黄巾の乱の中心勢力であった。
(6) 中国の三国時代には【 】・【 】・【 】の三国がしのぎを削った。
(7) 魏に替わって成立した【 】を建国した【 】は呉を滅ぼして中国を再統一した。

ワークシート(20)中国史(3)前漢~新

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(20)中国史(3)前漢~新

 農民反乱である陳勝呉広の乱による混乱の中で、秦は前202年に滅亡した。【 】の乱をきっかけとした混乱の中で登場した項羽と劉邦は激しく争い、最終的に劉邦が【 】を破って漢を建国した。都を長安において漢を建国した【 】は高祖と呼ばれた。劉邦すなわち【 】は郡国制を使って中国全土を統治した。この【 】制とは皇帝の直轄地には郡県制を採用し、地方の支配は世襲を認めた王を配置して統治を任せる制度である。したがって地方の支配は封建制を復活させたといえる。すなわち中央を【 】制で、地方を【 】制で統治する制度が【 】制である。漢を建国した劉邦と同じ時期に北方の騎馬遊牧民族である匈奴は勢力を拡大していた。この【 】の支配者が冒頓単于である。【 】はモンゴル高原に加えて西域のシルクロードも支配し、騎馬遊牧民族の【 】は全盛期を迎えた。
 一方、世襲を許された地方の【 】達はやがて皇帝に反発するようになり、前154年景帝のときに呉楚七国の乱を起こした。したがって【 】の乱は諸王たちの反乱である。景帝は【 】年の呉楚七国の乱を制圧した。
 呉楚七国の乱を制圧した【 】の後を継いで即位した武帝は、地方の支配者である諸王を廃止し、中国全土で郡県制を施行した。さらに【 】は朝鮮を征服して朝鮮4郡を、ヴェトナムなどを征服して南海9郡を置いて領域を広げた。匈奴を撃つために大月氏と同盟を結ぶ目的で、大旅行家張騫を派遣して西域情報を得た。大月氏まで往復した大旅行家【 】は【 】との軍事同盟には失敗したが、汗血馬などの情報を中国にもたらした。
武帝は【 】高原と【 】のシルクロードの両方を支配していた【 】に対して大規模な遠征を行った。モンゴル高原に遠征したのは将軍の衛青、西域に遠征したのは将軍の霍去病である。このように【 】や【 】といった将軍の活躍によって漢は領域を広げたが、大規模な遠征の費用が大きく、漢の財政は苦しくなった。そのため塩・鉄・酒を国家の専売とし、均輸法や平準法を定めた。しかし、【 】・【 】・【 】を専売にしたり、【 】法や【 】法を定めて税収を上げようとした政策は失敗したため、紀元後8年に外戚の王莽が政権を略奪して漢は滅亡した。外戚の【 】が建国した王朝を新という。
漢の武帝の時代は安定していたので儒学が発展した。とくに董仲舒は五経博士を設置して儒学の国学化を進めた。【 】が設置した五経博士は五経を研究する役所である。漢の武帝の時代に【 】はおおいに発展したが、新を建国した【 】は儒学の思想に基づいて政治を行い、周の時代の政治を理想としたため現実社会と合わずに【 】が滅亡する原因となった。
また、漢の武帝は官吏登用法である郷挙里選を行った。この【 】という制度は地方の豪族が地元から役人を選んで中央政府に送り込むもので、地方豪族の力が依然として強いことを示している。そのほか、司馬遷が歴史書である『史記』を書き残したのも漢の武帝の時代であった。【 】が書いた『史記』は紀伝体で書かれた。この【 】体とは皇帝などの人物中心、出来事中心に編集して歴史の書き方で、時代順に書き進める編年体とは対照的な記述方法である。






ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】を破った劉邦は【 】年に漢を建国し、都を【 】に定めた。
(2) 高祖が行った【 】制で配置された諸王は【 】年に【 】の乱を起こしたが【 】に鎮圧された。
(3) 呉楚七国の乱後に即位した武帝は【 】制を施行した。
(4) 武帝の時代、匈奴と戦うために大旅行家【 】を【 】に派遣して西域の情報を手に入れた。
(5) 武帝の時代、【 】と【 】の活躍で匈奴に勝利を治めた。
(6) 武帝の時代、【 】の活躍で【 】が国学化された。
(7) 武帝の時代、【 】という官吏登用制が採用された。
(8) 武帝の時代、財政再建のために【 】・【 】・【 】が専売され、【 】法と【 】法が制定された。
(9) 司馬遷が書いた『【 】』は人物・出来事中心の【 】体で書かれた。

ワークシート(19)中国史(2)秦

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(19)中国史(2)秦

 秦王の孝公が登場すると戦国の七雄の一つであった秦は発展し始めた。秦王【 】は法家の思想を採用し【 】の思想家である商鞅を宰相に登用して成功を収めた。また秦は郡県制を用いて領域を支配した。36の郡に秦の領域を分けて各郡に長官を派遣したのである。このような中央集権的な統治方法を【 】制という。
 秦の始皇帝は同じく【 】の思想家である李斯を宰相に登用した。秦の【 】は前221年に中国を統一して最初の皇帝になった。秦は都を咸陽に置き、全領域を48郡に分けて郡県制を布いた。また厳しい思想統制である焚書坑儒を行った。この【 】とは儒家などの書物を焼き、儒家を穴埋めにした事件である。思想統制に加えて経済面での統制も強化された。度量衡を統一し、大商人を都の【 】に移住させ、鋳造貨幣も半両銭に統一した。戦国時代には各国でさまざまな貨幣が作られていたが、秦では【 】のみが使用されたことで、商業は大いに発展した。
 中国を始めて統一した秦の【 】は北方のモンゴル高原で勢力を広げていた匈奴に対抗するために万里の長城を建設した。モンゴル高原で台頭してきた【 】は騎馬遊牧民族である。始皇帝は将軍蒙恬に命じて匈奴を攻撃し、さらに同じく将軍【 】に命じて【 】の建設を行った。しかし、万里の長城の建設の負担は大きく、始皇帝の死後まもなく陳勝呉広の乱が発生した。【 】の乱は中国史上最初の農民反乱であった。【 】の乱をきっかけとした混乱の中で、中国最初の統一王朝である【 】は前202年に滅亡した。







ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】年に中国を最初に統一した王朝である【 】は都を【 】に置いた。
(2) 中国を始めて統一した【 】は宰相に【 】の思想家である【 】を登用して厳しい政治を行った。
(3) 秦は【 】制を採用して領域を48郡に分けて統治した。
(4) 秦は思想統制策である【 】を行った。
(5) 秦は貨幣を【 】に統一し、大商人を都の【 】に移住させた。
(6) 秦の始皇帝は将軍【 】に命じて北方の【 】を攻撃し、さらに【 】を建設した。
(7) 万里の長城の建設の負担から大農民反乱である【 】の乱が発生して秦は【 】年に滅んだ。

ワークシート(18)中国史(1)黄河文明~春秋戦国時代

2011年07月15日 | ワークシート
ワークシート(18)中国史(1)黄河文明~春秋戦国時代

 前5000年ころ黄河中流域の河南省に黄河文明が成立した。この時期の【 】文明をヤンシャオ文化と呼ぶ。この【 】文化は仰韶文化と書く。【 】文化を発見したのはスウェーデン人アンダーソンであった。スウェーデン人【 】が発見した仰韶文化は新石器時代の文化で、磨製石器を使用していた。
さらに前3000年ころになると黄河文明は黄河下流の山東省に移った。この時期の黄河文明をロンシャン文化と呼ぶ。この【 】文化は竜山文化と書く。この【 】文化では仰韶文化同様に【 】時代の文化で、進歩した三足土器が使用された。
前1600年ころになると殷が成立した。この【 】は司馬遷の『史記』に書かれた伝説上の王朝と考えられていた。しかし、王国維が甲骨文字の解読に成功して、中国最初の王朝である【 】の実在が確認された。まさに、【 】が『史記』で記述した内容通りであった。【 】文字が発見された場所は河南省安陽県小屯村である。すなわち【 】省【 】県【 】村が殷の都すなわち殷墟である。甲骨文字はこの【 】で発見されたといえる。殷は高度な青銅器文明で、邑と呼ばれる都市国家の連合体であった。この都市国家すなわち【 】を統率していたのが大邑商であった。殷では神権政治がおこなわれ、【 】が解読した甲骨文字が占いに使用された。この【 】文字が現在の漢字の源流である。
前11世紀になると殷に替わって周が成立した。周の都は鎬京である。この2番目の王朝【 】では封建制による統治が行われた。この【 】制とは血縁関係に基づく氏族間の上下関係である。この氏族を宗族という。したがって、この【 】という氏族の中で本家と分家に別れ、本家を上位に立って分家を従える関係といえる。この宗族が守るべき上下関係のルールを宗法という。
周は北から犬戎という異民族に侵入され前770年に都を【 】から洛邑に遷都した。異民族【 】の侵入によって周が都を東に遷した出来事を周の東遷という。また、前770年以前の都が【 】に置かれていた時代を西周、【 】年以降の都が【 】に置かれていた時代を東周と区別する。
前770年から始まった東周の前半の時代は、諸侯が周の王室を支えて異民族に対抗した。これらの諸侯のうち有力な【 】を覇者という。しかし、前403年に諸侯の晋が韓・魏・趙の三国に分裂したのをきっかけに、周の王室への敬意が失われた。この【 】年に晋が【 】・【 】・【 】の三国に分かれる以前を春秋時代と呼び、以後を戦国時代と呼ぶ。すなわち【 】時代で覇者が周王室を支えたが、【 】時代は周王室を無視して7カ国が争う乱世になった。この7カ国を戦国の七雄と呼ぶ。また、諸子百家という思想家が登場した。【 】の中でも孔子の儒家、老子の道家、商鞅や李斯の法家が有力である。孔子の【 】はさらに孟子や荀子が受け継ぎ、【 】の道家は荘子が受け継いだ。
【 】年から始まった戦国時代では各国が富国強兵策を取ったが、中でも西方の秦が有力になり、【 】の思想家である李斯を宰相とした始皇帝が前221年に中国を統一した。



ワンフレーズ・チェック
(1) 前5000年ころ新石器時代の黄河文明が成立し、中流域の【 】省で【 】文化が成立した。
(2) 前3000年ころ黄河下流域の【 】省で【 】文化が成立した。
(3) 前1600年ころ中国最初の王朝である【 】が成立した。
(4) 【 】で発見され、王国維が解読した【 】文字は殷では占いに使用された。
(5) 前11世紀に都を【 】に置いた【 】が成立し、【 】制による統治が行われた。
(6) 【 】年に周は都を【 】に遷都した。前半を【 】時代、後半を【 】時代と呼ぶ。
(7) 春秋時代は周の王室が尊敬され、【 】と呼ばれる有力諸侯が周王室を支えた。
(8) 【 】年から戦国時代になると、【 】と呼ばれる7カ国が対立した。
(9) 戦国時代では【 】と呼ばれる思想家が登場した。
(10) 【 】年に秦の始皇帝が【 】を宰相に登用して中国を統一した。