板書(22)中国史(5)魏晋南北朝時代
220年に魏の文帝が後漢を滅ぼして三国時代が始まった。三国とは、後漢を滅ぼした【 】に加え、健業を都とする呉と成都を美代子とする蜀である。呉の都【 】は現在の南京である。もっとも勢力が盛んだった魏であったが、後漢を滅ぼした【 】が亡くなると、国を司馬炎に奪われて滅亡した。【 】を滅ぼして西晋を建国した【 】は、やがて280年に健業すなわち現在の【 】に都を置いていた【 】を滅ぼして中国を再統一することに成功した。しかし、中国を統一して【 】時代を終われせた西晋は、八王の乱に続き、傭兵だった南匈奴が起こした反乱によって滅亡した。【 】が起こしたこの反乱を永嘉の乱という。この【 】の乱をきっかけにして北方遊牧民族が次々に中国の華北に侵入した。中国人たちは北方遊牧民族の侵入を避けて江南地方に移って東晋を建国した。【 】地方で東晋を建国した人物は司馬睿である。都は現在の南京にあたる健康であった。江南にはその後、現在の南京すなわち【 】を都とする中国人王朝が続いた。三国時代に健業を都とした【 】から東晋をへて全部で6つの王朝が【 】地方で成立したので、これらを六朝と呼ぶ。
江南地方は中国人王朝が続いた結果、水田開発が急速に進んだ。また、文化面でも六朝文化という貴族文化が成立した。東晋の陶淵明(トウエンメイ)は詩、同じく東晋の王羲之(オウギシ)は書を完成させ、同じく【 】の顧之(コガイシ)が絵画で「女史箴図」で貴族の生活を描いた。また【 】文化のもう一つの特徴は清談(セイダン)である。【 】とは老荘思想の影響を受けた思想で、実際の政治から離れて学問を考えることである。
一方、北方遊牧民族が侵入した華北では、約130年間続く大混乱の時代となった。これら様々な北方遊牧民族を五胡と呼ぶ。【 】とは匈奴・羯(ケツ)・鮮卑(センピ)・氐(テイ)・羌(キョウ)の5民族である。これら華北はこれら五胡によって16カ国に分裂していた。この時代を五胡十六国時代と呼ぶ。
その頃、モンゴル高原では386年に北魏が成立した。この【 】を建国したのは鮮卑族で、その建国者は拓抜珪という人物である。北魏の建国者【 】は道武帝として即位した。次いで北魏に登場した太武帝は、439年【 】時代の華北を統一した。これによって華北には【 】族が建国した【 】と、江南の中国人王朝が並立するようになったので、南北朝時代と呼ぶ。北魏ははじめモンゴル高原と華北を支配していたが、494年に孝文帝は漢化政策をとってモンゴル高原を捨て、華北に移住した。すなわち孝文帝がとった【 】政策の結果、【 】族は中国人として生きていくことになった。漢化政策をとった【 】帝のあと北魏は西魏と東魏に分裂した。前者の【 】はさらに北周になり、後者の【 】は北斉になったが、西魏に代わった【 】の外戚である楊堅は北周を滅ぼして581年に隋を建国した。隋の建国者【 】は、さらに南朝の陳を589年征服して中国を再統一することに成功した。
ワンフレーズ・チェック
(1) 三国時代には【 】・【 】・【 】の3国が並立して争った。
(2) 三国時代を統一した【 】という王朝は【 】の乱に続いておきた【 】の乱で滅亡した。
(3) 永嘉の乱により華北は【 】時代という戦乱の時代になり、中国人は【 】地方に逃れた。
(4) 陶淵明は【 】、王羲之は【 】、「【 】」を描いた顧之は絵画で知られる。
(5) 【 】とは六朝文化の特徴の一つで、政治には無関心な【 】思想の影響を強く受けていた。
(6) 匈奴・羯(ケツ)・鮮卑(センピ)・氐(テイ)・羌(キョウ)を【 】と呼ぶ。
(7) 北魏の建国者は【 】帝、華北を支配したのは【 】帝、漢化政策をとったのが【 】帝である。
(8) 北魏は【 】族が建てた王朝で、建国者は【 】すなわち道武帝である。
(9) 【 】は【 】年に隋を建国し、589年に南朝の【 】を征服して中国を再統一した。
220年に魏の文帝が後漢を滅ぼして三国時代が始まった。三国とは、後漢を滅ぼした【 】に加え、健業を都とする呉と成都を美代子とする蜀である。呉の都【 】は現在の南京である。もっとも勢力が盛んだった魏であったが、後漢を滅ぼした【 】が亡くなると、国を司馬炎に奪われて滅亡した。【 】を滅ぼして西晋を建国した【 】は、やがて280年に健業すなわち現在の【 】に都を置いていた【 】を滅ぼして中国を再統一することに成功した。しかし、中国を統一して【 】時代を終われせた西晋は、八王の乱に続き、傭兵だった南匈奴が起こした反乱によって滅亡した。【 】が起こしたこの反乱を永嘉の乱という。この【 】の乱をきっかけにして北方遊牧民族が次々に中国の華北に侵入した。中国人たちは北方遊牧民族の侵入を避けて江南地方に移って東晋を建国した。【 】地方で東晋を建国した人物は司馬睿である。都は現在の南京にあたる健康であった。江南にはその後、現在の南京すなわち【 】を都とする中国人王朝が続いた。三国時代に健業を都とした【 】から東晋をへて全部で6つの王朝が【 】地方で成立したので、これらを六朝と呼ぶ。
江南地方は中国人王朝が続いた結果、水田開発が急速に進んだ。また、文化面でも六朝文化という貴族文化が成立した。東晋の陶淵明(トウエンメイ)は詩、同じく東晋の王羲之(オウギシ)は書を完成させ、同じく【 】の顧之(コガイシ)が絵画で「女史箴図」で貴族の生活を描いた。また【 】文化のもう一つの特徴は清談(セイダン)である。【 】とは老荘思想の影響を受けた思想で、実際の政治から離れて学問を考えることである。
一方、北方遊牧民族が侵入した華北では、約130年間続く大混乱の時代となった。これら様々な北方遊牧民族を五胡と呼ぶ。【 】とは匈奴・羯(ケツ)・鮮卑(センピ)・氐(テイ)・羌(キョウ)の5民族である。これら華北はこれら五胡によって16カ国に分裂していた。この時代を五胡十六国時代と呼ぶ。
その頃、モンゴル高原では386年に北魏が成立した。この【 】を建国したのは鮮卑族で、その建国者は拓抜珪という人物である。北魏の建国者【 】は道武帝として即位した。次いで北魏に登場した太武帝は、439年【 】時代の華北を統一した。これによって華北には【 】族が建国した【 】と、江南の中国人王朝が並立するようになったので、南北朝時代と呼ぶ。北魏ははじめモンゴル高原と華北を支配していたが、494年に孝文帝は漢化政策をとってモンゴル高原を捨て、華北に移住した。すなわち孝文帝がとった【 】政策の結果、【 】族は中国人として生きていくことになった。漢化政策をとった【 】帝のあと北魏は西魏と東魏に分裂した。前者の【 】はさらに北周になり、後者の【 】は北斉になったが、西魏に代わった【 】の外戚である楊堅は北周を滅ぼして581年に隋を建国した。隋の建国者【 】は、さらに南朝の陳を589年征服して中国を再統一することに成功した。
ワンフレーズ・チェック
(1) 三国時代には【 】・【 】・【 】の3国が並立して争った。
(2) 三国時代を統一した【 】という王朝は【 】の乱に続いておきた【 】の乱で滅亡した。
(3) 永嘉の乱により華北は【 】時代という戦乱の時代になり、中国人は【 】地方に逃れた。
(4) 陶淵明は【 】、王羲之は【 】、「【 】」を描いた顧之は絵画で知られる。
(5) 【 】とは六朝文化の特徴の一つで、政治には無関心な【 】思想の影響を強く受けていた。
(6) 匈奴・羯(ケツ)・鮮卑(センピ)・氐(テイ)・羌(キョウ)を【 】と呼ぶ。
(7) 北魏の建国者は【 】帝、華北を支配したのは【 】帝、漢化政策をとったのが【 】帝である。
(8) 北魏は【 】族が建てた王朝で、建国者は【 】すなわち道武帝である。
(9) 【 】は【 】年に隋を建国し、589年に南朝の【 】を征服して中国を再統一した。