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インド洋の歴史 03 法政大学改

2012年02月01日 | 高3用 授業内容をもう一度
インド洋の西部地域では,おおむね4月から9月にかけて強い風が南西から北東に,つまりアフリカ方面からアラビア・インド方面に向け,やむことなく吹きつける。そして11月から3月にかけては,逆に北東から南西へ向けて風が吹く。インド洋交易を行っていたエジプト在住の無名の商人によって【紀元1世紀】中頃に書かれた,【ギリシア】語の小冊子「【エリュトゥラー海案内記】」によれば,ギリシア人の船乗り【ヒッパロス】がこの季節風を知り,アラビア海からインドヘの直接航海を行ったため,その南西風を【ヒッパロスの風】と呼ぶようになったと言われる。
 古代ギリシアの歴史家【ヘロドトス】はその著書「【歴史】」の中で,紀元前7世紀頃にエジプト王ネコがフェニキア人の船団をアフリカ周航のために派遣したことを記している。それによると,彼らは紅海から東アフリカを経てアフリカ南端を回航し,ジブラルタル海峡を通り地中海へ出てアフリカを一周し,エジプトに戻ってきた。しかし,初期の交易活動については史料が少なく,詳しいことはわかっていない。
 交易活動についての情報が増えてくるのは,アッバース朝の中頃以降のことで,その頃には交易活動が盛んに行われていたことが知られている。東アフリカとアラビアを行き来したのは,一般的には【ダウ】と呼ばれた木造の帆船である。
 東アフリカから北に向かった海の交易ルートは,古い時代には,まずアラビア半島に至り,そこを経由してペルシア,エジプト,インドなどともつながっていたものと考えられる。アラビア半島やインドは,海の道と呼ばれる東西交通路の真ん中に位置していた。そのルートは,西は地中海世界,東は東南アジアを経て中国とつながっていた。
 8世紀半ばに【バグダッド】を首都として【アッバース】朝が成立すると,アラビア近海の海洋交易ルートもペルシア湾経由のルートが中心になった。10世紀後半以降,アッバース朝の力は衰えていき,13世紀半ばには滅亡した。代わって,10世紀後半にはエジプトを征服して首都【カイロ】を建設した【ファーティマ】朝が,後には【マムルーク】朝などが力を伸ばしてくる。そのため,紅海の出入口に位置した【イエメン】出身の商人たちが活躍することが多くなり,東アフリカ沿岸地方でもイエメン系の商人や船乗りが増えてくる。
 この頃から15世紀にかけて,東アフリカでは【キルワ】,【モガディシュ】,【マリンディ】,【モンバサ】などの海港都市が成長した。14世紀半ばに東アフリカを訪れた【イブン=バットゥータ】は,その旅行記「【三大陸周遊記】」の中で,モガディシュは大きな町でその住民は商人でたくさんのラクダをもっているとし,またキルワについても,それは大きな町でたいへん立派につくられており,住民の多数は【ザンジュ】と呼ばれる【黒人】であると伝えている。どちらの町もスルタンによって統治されていた。
 このように,この時期には海港都市が成長し,インド洋交渉も発展したが,それを象徴したものが,【明朝】が派遣した中国艦隊の東アフリカヘの来航である。明の第3代皇帝【永楽帝】は積極的な対外政策を推進したが,東南アジアやインド洋にも関心を向け,【朝貢貿易】の再開などを目的に1405年,【鄭和】に数十隻からなる大艦隊を授け東南アジアやインド洋に派遣した。以降,鄭和に率いられた中国艦隊は1433年まで都合【7】回,インド洋に来航した。第1回から第3回まではその艦隊はインド西岸の【カリカット】までしかやってこなかったが,第4回以降はペルシア湾にまで来航している。中でも,1413年に出帆した第4回,1417年の第5回,1421年の第6回航海では,分遺隊が東アフリカの【マリンディ】にもやってきた。
 1497年7月8日,【ヴァスコ=ダ=ガマ】に率いられ,4隻170人の陣容で【リスボン】を出帆したポルトガル艦隊が,【喜望峰】を回りインド洋に入ったのは11月22日のことであった。翌年4月4日に【キルワ】を通過し,モンバサに立ち寄ったのち4月13日には【マリンディ】に到着した。ポルトガル艦隊のインド洋への登場は,交易活動に依存した東アフリカの都市国家に大きな影響を与えた。ポルトガルは通商活動を支配するために,モザンビークなど,支配下に置いた東アフリカ沿岸のいくつかの港町に要塞や通商拠点を設けた。


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