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ポーランドの消滅と東西国境線の変化

2013年09月23日 | 高3用 授業内容をもう一度

 ポーランドは歴史上3度消滅している。1回目は【1772年・93年・95年】の「ポーランド分割」、2回目は【1815】年に成立し、ロシア皇帝【アレクサンドル1世】がポーランド国王を兼務する「【ポーランド立憲君主国】」が、【1830】年の【7月革命】の影響を受けて、同君連合として事実上ポーランドを支配していたロシア皇帝の【ニコライ1世】に対し蜂起したが失敗。その結果、ポーランドは「【ロシアの1州】」の地位にされた時に消滅している。3回目は第2次世界大戦の開戦時、独ソによって行われた「【ポーランド侵攻】」の時である。
 したがって、第1次世界大戦開戦時には、ポーランドはロシア領であり、ポーランドという国家は存在しなかった。このポーランド問題をいかに扱うか、という点が戦後処理の最大の問題であった。
 ウィルソン大統領は「14ケ条」で「【民族自決権】」を提唱し、ポーランドの国家建設が認められた。しかし、ロシア革命で成立した【レーニン】政権は1918年3月に【ブレスト=リトフスク条約】をドイツ帝国と結び、直接国境を接していた独ソ国境線が両国間で定められた。この条約では、ドイツが優位に戦争を進めていたこともあって、第1次世界大戦の開戦時よりもはるかに東方、すなわちソ連側に食い込む形で、国境は東に移動していた。もちろん、この段階ではポーランドは復活していない。
 しかし、第1次世界大戦ドイツ敗戦後、【パリ講和会議】においてポーランドの独立が認められた。会議で英仏は、ポーランド領は敗戦国ドイツから作られ、東のソ連との国境線はイギリス外務大臣【カーゾン】が、いわゆる「【カーゾン線】」を提唱して決定しようとした。カーゾン線はブレスト=リトフスク条約における独ソ国境線よりはるかに西方にあった。そのため、新興国ポーランドがカーゾン線に反発し、【1920】年【ソ連・ポーランド】戦争が勃発した。1918年から始まっていた【干渉戦争】と、革命政権に反発する【白色テロ】に苦しむソ連に、ポーランドが勝利した結果、ポーランド・ソ連の国境線は、カーゾン線よりも大きく東方に移された。
 【1939年9月】【独ソ】がポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発したが、ソ連の独裁者【スターリン】はカーゾン線こそが、ポーランドとソ連の正しい国境線であるという主張であった。
 第2次世界大戦後のポーランドの西方に当たるポーランドと東ドイツの国境線は【オーデル・ナイセ線】(オーデル川とナイセ川を結ぶ線)となり、さらに西に位置する西ドイツ政府も【ブラント】政権の時にこれを了承した。また、ポーランドの東方に当たるポーランドとソ連の国境線は「【カーゾン線】」が採用された。
その結果、ポーランドの国土は、第2次世界大戦前後では、大きく西に大きくずれ込んだ。


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