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中国文献史

2012年02月12日 | 高3用 授業内容をもう一度

中国には蔵書の多いことを言い表す「汗牛充棟」という4字熟語がある。この語のもつ意味は、車に積んで牛にひかせると、書物の重さでその牛が汗をかき、家の中に積み上げると、棟まで届いて家中が書物で一杯になるというものである。また、中国は「文字の国」とも言われることがある。それは中国人が古くから漢字を連ね、さまざまの事物や出来事を表現する習慣を持った民族でることに由来している。まさに、「汗牛充棟」もその一つである。このような4字熟語が生み出された背景には、中国で古くから書物が多かった点が指摘できる。

中国で最も古い書物は、周の史官が記録したともいわれ、王者の言辞などが記載されている【A書経】であり、また、華北の国々の民謡や宮廷の儀礼歌などを集めた詩経であろう。【A書経】の編者は孔子であると伝えられ、堯・舜から夏・殷・周3代の帝王の事蹟をまとめたものである。ただし、現存する58編の真偽は定かではない。また、紀元前1世紀頃、【B班固】は自身の著である漢書の一篇である「芸文志」(図書目録)に、13000巻にのぼる書物が宮廷の書庫にあったと記録に残している。

後漢から魏晋南北時代にかけて、文学創作が活発になり、多くの書物が著された。そこで体系的にすぐれた作品の選集を編纂することが求められた。南朝梁の【C昭明太子】が、周から梁にいたる130人の詩文を集めて編纂した文選がその代表であり、後世に伝えられて内容ある美文の手本として重んじられた。また、日本の「十七条憲法」や「万葉集」の部立に影響を与えている。一方、北魏の賈思勰が華北の乾燥地帯における古くからの農業技術や農家経営法など文献を集大成し、かれ自身の考えなども加えて、全文7万字・小字注記4万におよぶ【D斉民要術】という�農書を著したのも同様の傾向の表れといってよい。

唐の時代になると科挙の盛行もあって、いっそう多くの書物が著された。そのため、唐中期の玄宗の時代、宮廷にあった書物を経(経書)・史(史書・詔令・地理等の書)・子(諸子百家の書)・集(詩文の書)の4種類に分類し、その分類ごとに色分けをした4つの庫に収納した。中国書の分類法を四庫分類というのはこれにもとづいており、日本の大学や研究所などの図書館でも、中国書籍の分類にはこの方法をとることが一般的に行われている。宋代になると木版印刷術が盛んになった。そのためもあって、四書・五経をはじめ、【E司馬光】が編集した通史『資治通鑑』など多くの書物が刊行された。

宋代から明清の時代かけて、たくさんの書物の中から、内容を類似する事項によって分類、編集した書物である「類書」がおおく編集された。これは中国における百科全書ともいえよう。宋代につくられた類書には『太平御覧』1000巻、『冊府元亀』1000巻がある。さらに明代には永楽帝の命によって編纂された22877巻におよぶ【F永楽大典】、清初には康煕帝の命による1万巻の【G古今図書集成】などがある。とくに後者は、形式が整備され内容豊富なため、現在も利用されている。

また、明清時代には類書とは異なって、書物そのものを集めた膨大な「叢書」が刊行された。なかでも清の【H乾隆】帝の命によって、古今の書を集めた約8万巻にのぼる叢書【四庫全書】がつくられた。これは、当時集められるだけの重要な書籍を集めて、それらを前述の四庫分類法にもとづき分類した欽定一大叢書である。ただし、その際、清朝に都合の悪い内容のものは一部を削除し、あるいは【J禁書】に指定している。これらの大部な類書や叢書がつくられたのは、印刷術が発達していたことにもよるが、また、中国の知識人が書物を読み、著作し、収集することを好んだためでもあろう。文頭に述べた「汗牛充棟」の語が必ずしも誇大ではないことを実証する結果ともなっている。


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