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琉球の歴史からみる世界史(3)

2006年11月30日 | 高校1年生用
琉球の歴史からみる世界史(3)・・・沖縄まるごと大百科②沖縄の歴史 ポプラ社より

(8)中国と日本の支配下へ
 朝貢貿易により、さかえていた琉球王国にとって、①豊臣秀吉の朝鮮出兵は、大きな問題を投げかけてきました。琉球は秀吉の命令を一度はことわりましたが、衝突をさけ、要求された金銀の半分を送ることにしました。1603年に②江戸幕府が誕生すると、徳川家康は中国との貿易をのぞみ、琉球にその仲介役を期待しました。しかし、琉球王国は幕府の意図に従いませんでした。そこで③薩摩藩の④島津氏は、家康の許しをえて1609年3月、100隻の船と3000の兵でもって琉球に攻めいりました。長いあいだ、武器をもってたたかうことをしてこなかった琉球王国は、4月1日、はげしく抵抗することなく降伏し、琉球王尚寧は薩摩に連れていかれました。
 
 こののち島津氏は琉球に奉行所をおき、中国貿易やポルトガル船、スペイン船の監視をしました。琉球王国は、中国との関係をたもちながら、江戸幕府の支配体制のなかにくみこまれるという二重外交をせざるをえなくなります。
 江戸時代、琉球は将軍の代がかわるときに⑤慶賀使を、琉球国王がかわるときは⑥謝恩使を、江戸に送りました。こうした「江戸上り」は1634年から1850年までに、18回おこなわれました。

 一方、中国の皇帝は琉球国王の地位をみとめ、中国を中心とした世界にくみこむ「⑦冊封」体制の中に琉球王国を組み込んでいました。琉球国王が代わるたびに中国から⑨冊封使が送られました。琉球国王は中国の皇帝のもとに使節を送り、忠誠をちかいました。中国とこうした冊封関係をむすんだ国は、琉球のほかに朝鮮、ジャワ(現インドネシア)、シャム(現タイ)、マラッカ(現マレーシア)、アンナン(現ベトナム)など10数か国ありました。これらの国を⑧朝貢国とよびます。
 薩摩藩の支配のもとに入ってから、琉球王国の財政は年々、苦しくなっていきました。収入の大半は薩摩に年貢として取られ、借財はふくれあがっていたのです。

(9)産業と文化の基礎の発展
 17世紀はじめ、島津氏の侵入により、琉球王国が混乱しているなか、2つの農作物がもたらされました。ひとつはイモ、そしてもうひとつはサトウキビです。イモは、農民の常食となり、飢饅のときもしのぐことのできる画期的な農作物となりました。のちに、このイモは薩摩藩にわたり「サツマイモ」として日本全国に広まりました。また、1623年には、砂糖の製造方法を中国から学びました。サトウキビは沖縄の風土にあい、急速に広まりました。砂糖は王府の重要な交易品となり、薩摩にもはこばれ、日本各地に送られました。
 
 17世紀から18世紀にかけて、琉球王国の現状をとらえ、いかにたてなおすかを考え、努力をした2人の政治家がいました。歴史書『⑩中山世鑑(チュウザンセイカン)』を著した⑪羽地朝秀と察温です。かれらの努力により、王国の政治が安定し、文化面でも大きな発展が見られました。 
この頃、歌謡集『おもろさうし』の編集がほぼ完成しました。各地に伝わる「オモロ」という歌謡を集めたもので、沖縄の『万葉集』ともいわれています。全22巻、1554首がおさめられました。また、陶器や漆器、織物、染織などにおいて、琉球独自の作風が生みだされたのです。音楽では、サンシン(三線)が発達しました。

(10)ペリーの来航
 19世紀に入ると、近海には西洋の船が頻繁にすがたをあらわすようになりました。1797年に、イギリス海軍のプロビデンス号が宮古島沖で遭難し、島民に救助されました。艦長のブロートンは、『北太平洋探検航海記』をあらわし、琉球人の友好的な態度をほめ、日本との貿易の中継地として琉球が適しているとしるしています。1816年には、イギリスの艦船アルセスト号とライラ号が那覇港に入り、40日間とどまりました。ライラ号の艦長バジル=ホールは、のちに『朝鮮西海岸および大琉球島探検航海記』をあらわしました。

 ⑫1853年5月26日、⑬ペリーがひきいるアメリカの軍艦4隻が、那覇港に入港しました。ペリーは、日本との交渉に失敗したら、琉球を占領するつもりでいました。ペリーは「奴隷のように苦しんでいる」住民を、薩摩支配から解放し、生活を向上させることができると考えていたのです。1854年3月、ペリーは幕府と「日米和親条約」をむすび、その後、琉球とも「琉米条約」をむすびました。これにより、アメリカの船は、いつでも自由に那覇港に寄ることができるようになりました。

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