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トルコ民族史 

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 トルコ族は,前3世紀から【丁零】(テイレイ)の名で中国史料に見える。5世紀に【高車】と呼ばれたものはその後裔であった。当時の北アジアでは,モンゴル系の【柔然】が強盛を誇っていたが,高車はこれに背いてジュンガリアに建国し,タリム盆地に勢力を伸ばした。
 6世紀の中国史料では,バイカル湖の南からカスピ海まで広がるトルコ族を【鉄勒】と総称したが,やがてその中からアルタイ山麓に【突厥】が興つた。突厥は,柔然に服属し鍛鉄を行っていたが,中国との交易によって勢力を拡大するようになった。
 当時、北中国の西半を支配していた【西魏】と通婚した突厥阿史那氏のブミンは,【552】年,柔然を破って【オルホン】川上流に即位し、イリ=カガンと称した。イリの子は,東方では柔然を滅ぼしたのち,中国に圧迫を加え,西方では叔父のイステミを西面可汗に任じた。イステミはビザンツ帝国と通交するなど大可汗を凌ぐ勢いを見せ,イステミの子の達頭可汗は【583】年に独立し、【西突厥】が成立した。
 【隋】の巧みな離間策に翻弄されて突厥は、一時、内紛状態に陥ったが,隋の滅亡とともに勢力を挽回した。しかし東突厥は,譲利可汗の時,鉄勒諸部の反乱に乗じた唐の攻撃を被り,630年,前期帝国は瓦解した。
 西突厥も657年、【唐】に滅ぼされた。679年頃,阿史那骨咄禄が鉄勒諸部を破って唐より独立。イルティリシュ=カガンを称し,帝国を復興した。かれの子ビルゲ=カガンは弟キュル=テギン及び名宰相トンユククックの補佐を得て,後期帝国の最盛期を迎えた。オルホン川・トラ川流域で発見されたいわゆる突厥碑文はかれらの功績を讃えたものである。だが,734年ビルゲ=カガンが暗殺されると,諸部族が離反し,【744】年、【ウイグル】のクトルク=ボイラが自立してカガンを称し,突厥は瓦解した。
 ウイグルは唐に出兵し、【安史の乱】平定を援助するなど、強盛を誇ったが,ほどなく衰え、【840】年,【キルギス】族のために帝国は崩壊した。ウイグル族は各地に移動したが,このうち,チュー河畔のベラサグン地方に移ったものは,【カラ=ハン】朝を建国した。カシュガルの副王サトク=ボグラ=ハンはイスラム教に改宗し,960年ごろにはチュー河畔の民も改宗した。この頃からトルコ族は定住生活に向かい,タリム盆地では,それまで優勢であったイラン系民族を同化した。今の【新疆ウイグル自治区】の基盤となる【東トルキスタン】の成立である。カラ=ハン朝は,【サーマーン朝】を滅ぼして,パミール高原以西のトルコ化をも進め,トランスオクシアナからイラン系民族を駆逐した。【西トルキスタン】の成立である。

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