ウィーン体制を崩壊に導いたのは,【1848】年の諸革命であった。フランスでは、労働者が普通選挙を要求した【パンケ】(【改革宴会】)が【ギゾー】内閣によって禁止されたことで再びパリで暴動が発生した。この【2月革命】により【七月王政】が崩壊して【ラ=マルティーヌ】を首班とする【第2共和政】が成立し,その臨時政府には社会主義者の【ルイ=ブラン】が入閣を果たした。彼は【リュクサンブール委員会】を組織し、労働者のために【国立工場】(国立作業場)が設置した。しかし、【4月選挙】ではブルジョワジーのネガティブキャンペーンを受けて【農民】が保守化したため、社会主義者は大敗し、国立工場は閉鎖された。これに対しパリの労働者たちは【6月蜂起】を起こしたものの鎮圧され、第2共和制はブルジョワジーを中心とする勢力によって運営されていくことが確定的になった。さらに12月の大統領選挙にはナポレオン1世の甥に当たる【ルイ=ナポレオン】が当選している。
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