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中ソ論争

2012年12月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 1941年12月,日本が真珠湾を攻撃し,第二次大戦が世界的規模に拡大すると,【蒋介石】の率いる中国国民政府はただちに枢軸国側に宣戦を布告し,連合国側のアジア戦線の主力を担う中華民国の国際的地位は顕著に上昇することとなった。1943年11月,蒋介石は【カイロ】会談でアメリカ大統領ローズヴェルト,イギリス首相チャーチルと会談し,中国が戦後アジアの国際秩序の中心的な担い手となることを示した。
 1945年2月,クリミア半島南端の保養地【ヤルタ】でローズヴェルト・チャーチル・スターリンの米英ソ3巨頭会談が開催され,アジア・ヨーロッパの戦後政治秩序を最終的に決定づけることとなった。この過程でスターリンは,中国に関し,日露戦争でロシアが失った大連・旅順の【租借】権のソ連への返還日本の植民地鉄道であった【南満州鉄道】の中ソ共同経営,などの要求を提出し,【1932】年胃成立した「満州国」崩壊後に権力の空白が生じる中国東北への政治的進出の野心を明らかにしていた。
 日本の敗北後,中国では国共両党間の対立が激化し,内戦へと発展するにいたったが,その結果,【1949】年10月1日には【毛沢東】を主席とする中華人民共和国が成立し,アメリカの支援する【蒋介石】の国民政府は台湾へと逃げのびることとなった。
 翌1950年2月,モスクワで【中ソ友好同盟相互援助】条約が締結され,中ソは,日本に対する共同防衛と中国復興のための経済援助に合意した。その見返りとして中国はモンゴル人民共和国の独立を追認した。
 しかしこの中ソの団結は,決して長くは続かなかった。【1953】年3月に【スターリン】が死去したあと,【1956】年にはソ連共産党第【20】回大会で【フルシチョフ】が【スターリン】批判をおこなった。この動きは国際的にも大きな影響をもたらしたが,その過程で中国共産党はソ連の【平和共存路線】への批判を強め,やがてソ連を「現代【修正】主義」と非難するようになった。ソ連も1959年12月に【中ソ技術】協定を破棄し,翌1960年には中国から技術者を引きあげ,経済援助を停止したため,両国関係はいっそう悪化した。続く中ソのイデオロギー論争では,各国共産党の多くはソ連を支持し中国は国際丘産主義運動の内部でも孤立した。1969年3月,中ソはついに国境紛争をめぐって【ダマンスキー】島(中国名【珍宝島】)で大規模な武力衝突を起こすまでにいたった。
 その後も中ソ対立は続いたが,1980年代に入って中国では最高指導者【小平】の下で改革開放政策が推進され,またソ連でも【ゴルバチョフ】いわゆる【ペレストロイカ】(改革〕が進展する中で,【1989】年5月,ソ連共産党の【ゴルバチョフ】書記長が訪中し,中ソ両国はようやく過去の対立関係を清算することとなった。


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