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インドの独立運動の展開

2012年12月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 ヒンズー教徒は【ナオロジー】と【バネルジー】の二人を中心に【インド国民会議派】を結成したが、これは親英【】的組織であった。しかし、【1905】年日本が【日露戦争】でロシアに勝利したことを背景に、【1905】年イギリスが制定した【ベンガル分割令】に反発した国民会議派は、【ティラク】を中心に【1905】年【カルカッタ大会】を開き、【スワデシ】(国産品愛用)と【スワラジ】(自治)をスローガンに反英闘争を展開した。このベンガル分割令は、ベンガル地方にいるムスリムとヒンズー教徒とを分けて居住させるという政策である。
 一方、【ムスリム】(イスラム教徒)はこのとき【ジンナー】を中心に【親英】的な【全インドムスリム連盟】を結成している。その後、第1次世界大戦では、イギリス政府が戦後の自治を約束したため、国民会議派は戦争協力をヒンズー教徒に指示し、インド兵は【オスマン=トルコ帝国】との戦い(【メソポタミア戦線】)に出兵していった。
 しかし、第1次世界大戦後、イギリス政府は自治の約束を破ったばかりか、【1919】年に【ローラット法】を制定した。このローラット法とは、逮捕状なしに逮捕拘束ができるというもので、自治権または独立要求運動に参加するインド人を抑圧するための法律であった。さらにイギリスは、イギリスに有利な条件を提示して国民会議派を分裂させる目的で、【1919】年【インド統治法】を制定している。
 インドのムスリム(イスラム教徒)を代表するジンナーは、基本的には親英的な態度をとってきたが、オスマン=トルコ帝国皇帝(スルタン=カリフ)に対して、英仏が1919年に抑圧的な【セーブル条約】を押し付けたため、イスラム教徒としてスルタン=カリフを支援する意味で、この時期に限って【】反英闘争を展開している。ジンナーのこのときの反英運動を【キラーファット運動】という。
 【】1919年の【ローラット法】とインド統治法に反発した国民会議派の指導者は【ガンディ】であった。彼はイギリスで弁護士資格をとった後、【南アフリカ】に渡ったが、そこでアパルトヘイトに苦しむ人々を目撃してインドに戻り、独立運動の指導者になった人物である。ガンディは1919年【第1次サティーアグラハ運動】(【非暴力・不服従運動】)を展開した。その手法は【サルタール】(全面罷業すなわち大規模なストライキ)であり、【チャルカ】という「糸車」を用いて、インド人の洋服をインド人の手で作ることを呼びかけ、インド中に大きな影響を与えた。
 ガンディを中心とした国民会議派の独立運動に対し、イギリス政府は【1928】年【サイモン委員会】を開いて、インドの自治に対する検討に入った。しかし、サイモン委員会にはインド人の代表が参加を認められなかったために、ガンディの弟子である【ネルー】を中心とした国民会議派は【1929】年【ラフォール大会】を開き、【プールナ・スワラジ】(完全独立)を決議して反英闘争を強めた。一方、ガンディは【第2次サティーアグラハ運動】を展開した。これは有名な「【塩の行進】」に象徴される反英闘争である。塩の行進とは、ガンディが海岸まで徒歩で行き、当時イギリス政府が独占的に製造権・販売権を持っていた塩を製造しようというものであった。ガンディの行動を知った多数のインド人がガンディとともに海岸まで行進しただけでなく、インド中の海岸線で無数の人々が塩の製造を行った。
 イギリス政府は運動の規模の大きさに有効な手を打つことができず、妥協を余儀なくされ、【1930】年にロンドンでインド人代表を含む形で、【英印円卓会議】を開催した。インドの自治を検討する英印円卓会議は3回開催されたが、第【2】回にはガンディも参加している。ガンディの考えはヒンズー教徒とムスリムとが分裂することなくインドが独立することであった。しかし、親英的態度に終始するムスリムの指導者【ジンナー】に対して、ヒンズー教徒の国民会議派【ネルーは】不信感を持ち、ムスリムとヒンズーとの対立は深まる一方であった。
 第2次世界大戦が終結する直前、イギリスでは【アトリー労働党】政権が成立した。アトリーはインドの独立を容認し【1947】年【インド】の独立が達成された。しかし、ムスリム達は同じ1947年【パキスタン】の独立を宣言し、インドとパキスタンはヒンズーとムスリムとに分離した状態での独立になった。また、パキスタンはインダス川流域の西パキスタンと、ガンジス川流域(ベンガル地方)の東パキスタンとの2地域に離れた形での独立となり、後に問題を残す結果となった。
 両教徒の統一を呼びかけ続けたガンディは、【1948】年に狂信的な【ヒンズー教徒】の手で暗殺された。

インド独立運動のチェック・ポイント
�第1次世界大戦においてイギリスがインドにとった対応は?
=モンタギュー宣言で戦争協力と引き換えに戦後の自治を容認した。
�第1次世界大戦でガンディがとった対応は?
=戦争協力を呼びかけた(インド兵はおもにメソポタミア戦線でオスマン軍と戦っ た)
�第1次世界大戦後にイギリスが打ち出した抑圧策は?
=1919年ローラット法(礼状なしの逮捕や裁判抜きの投獄を容認したもの)
=1919年インド統治法(モンタギュー・チェルムスフォード改革の中で制定され  た。地方議会の設置を決めたが、藩王国に分断しているインドはさらに一体性を 失う危険があった)
�これらイギリスの政策に対するガンディの対応は?
=第1次サティーアグラハ運動(反英闘争の手法は全面罷業サルタール、反英闘争の 理念は心理の把握サティアグラハ、反英闘争の運動は非暴力不服従)
�ハリジャンとは?
=神の子(ガンディが不可触賎民を呼んだ呼び名)
�チャルカとは?
=国産品愛用を説くガンディが用いた糸車)
�反英闘争に押されて1928年にイギリスがとった政策は?
=サイモン委員会(インド人の参加は認められていない)
�サイモン委員会に反発した国民会議派の行動は?
=ラフォール大会(ネルーが中心。完全独立プールナ・スワラジを決議した)
�ガンディがとった対応は?
=1930年から第2次サティーアグラハ運動を展開した(塩の行進)
�これらの反英闘争の展開に対してイギリスがとった対応は?
=1930年英印円卓会議(ロンドンで3回開催。ガンディは第2回のみ参加)
�オスマントルコ帝国分割の危機に対してジンナーがとった対応は?
=キラーファット運動(ガンディと連携して反英闘争に転換)


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