山浦清美のお気楽トーク

省エネ、農業、飛行機、ボウリングのことなどテーマ限定なしのお気楽トークができればと思っております。

佐賀弁・筑後弁お国言葉比較考(9)

2013-01-07 | うんちく・小ネタ

 七日正月に当地(佐賀県小城市)では「鬼火焚き」なる行事が行われます。他の地域では「左義長」と言われているものと同じものと思われます。筑後弁では「左義長」のことを「さぎっちょ」となりますが、私は「ほんげんぎょ」と言っていました。

 昨日は、「鬼火焚き」の準備を行いました。山から竹を取り、公民館に隣接する広場に組み上げました。組み上げた形は全国似たようなものだと思います。筑後地方の「ほんげんぎょ」も大差ありません。若干異なるのは、「鬼火焚き」は竹のみで組まれるのに対し「ほんげんぎょ」の場合は、竹を骨格のみに用い、稲藁を主体にしていたというくらいでしょうか。筑後平野のど真ん中ですから、大きな竹の入手が難しかったのでしょう。一方で藁は多量にあったといったことであろうと想像します。また、大きな「ほんげんぎょ」は、子供クラブ主体で作って前日(六日)の夕方に行って、七日の朝に各家庭の庭先で小さなものをやっていたと記憶しております。そして、竈(くど)さんの種火にするために、ほんげんぎょの火を荒縄に灯して運んだものです。

 残念ながら、今朝方は所用で参加することはできませんでしたが、遠くで竹がはじける音が、そこかしこから聞こえておりました。

 七日正月といえば七草粥ですね。小学生の頃までは、ほんげんぎょから採った竈の火で七草粥を作っておりました。私が生まれ育った地域の七草粥は、一般の七草粥と少し変っているようです。春の七草を「七草の歌(?)」を歌いながら包丁で叩くようにして細かく刻みます。それを粥状に煮て味噌で味付けしたものを七草粥といっておりました。お粥みたいにどろどろしておりますが、米は入っておりません。

 生まれ故郷を離れ、いわゆる七草粥に出会ったときには、いささか驚いてしまいました。正直申し上げますと、あまり美味いものだとは思えませんでした。七日正月を迎えるたび、あの懐かしい味を思い浮かべてしまいます。


原発をどうすべきか

2013-01-04 | 政治・経済・社会

 先ごろ、安倍総理のインタビューが報道されておりました。テレビを視ただけですので不正確かも知れませんが凡そ次のような趣旨であったと記憶しております。

「選挙結果は自民党の原発政策が一定の理解を受けたものである」

「これから作る原発は安全である」

 インタビューの中で上の2点が少々引っかかりました。「謹賀新年」でも述べておりますように、今回の選挙において、原発政策を白紙委任したものと解することには疑問に思います。また、これから建設する原発は、最新の知見を盛り込んだものになるから安全であるといったことに対しても違和感を憶えます。どのような対策を盛り込もうが、完全無欠なものを作ることは不可能でしょう。これこれしかじかの対策をするから安全であるとすることは、新たなる原発神話を作ることに等しいと考えます。更には、「既存の原発はどうなの?」と問いたくなってしまいます。

 私自身、未だに原発をどうすべきであるかといった問に答えを見出すことができておりません。賛成反対の立場から多くの主張があります。感情的議論は別として、双方それなりの説得力をもっております。賛否の間で日々揺れ動いているといったところが正直なところです。そのような時、安倍首相のような発言を聞くと原発反対の方に気持が傾きます。

 そして今、残念に思うのは、このような重大な決定に関して、国民が直接関与できないことにあります。先の安倍首相の言葉のように、国民が原発を容認したかのように勝手な理解の仕方をされることに強い違和感を憶えます。確かに、間接民主制とはそういったものだと仰るならば、それはその通りでしょう。しかしながら、議会で多数を占めてしまえば何でもできると考えるのは早計だと思います。先の民主党政権のように、マニフェストに書いていないことを国民に信を問うことなく平然とやってのけてしまうといったことの二の舞にならないように願いたいものです。

 やはり、原発問題のように国民生活あるいは、子々孫々にまで重大な影響の及ぶ事案は、直接国民が選択するようにすべきであろうと考えます。でなければ、万々が一事故が発生した時に忍受せよと言われても御免被ります。一人一人の国民が、直接決定に関与することにより、自覚と責任が生まれるものと考えます。


ニセ科学とどうつきあうか

2013-01-03 | うんちく・小ネタ

 このブログで、私の少ない科学的・経験的知識からしてどうしても納得できないものをいくつか紹介してきました。(参考:「EM菌で除染?」「イオンの力?」「プラズマクラスターイオン掃除機に対する措置命令について」「「農業の常識は、自然界の非常識」」「「農業の常識は、自然界の非常識」-その2」「「ミネラル水なんでこんなに高いのか」」「「ミネラル水水道水とどう違う」」)

 私の専門(省エネ)と異なる分野については、知識不足により反論に対して適切に主張できませんし、ましてや断定的な主張は書けませんので、疑問を呈するとか川柳という形式で表現しております。

 明らかに科学的には否定されているような事柄は別として、科学を装っている場合は世の中を混乱に陥れることがあります。人畜無害なものならば、それを信じている方々に対して目くじらをたてる必要はないと考えますが、人的あるいは財産的被害が発生するようなものについては問題があると言わざるを得ません。

 そこで、科学とニセ科学を見分けるにはどうすれば良いのでしょうか。私は、科学が成立してきた過程、即ち科学史の中にその答えを見出すことができるのではないかと考えます。参考の中で挙げているものの中に、エネルギー保存則を否定したり、常温核融合を主張しているものもあります。それに反論するためには、エネルギー保存則が如何にして生まれてきたか。あるいは錬金術が如何に否定されてきたかといった歴史を学ぶことにより、科学とニセ科学の見分けができると考えます。

 そのような折りも折り、年末から年始にかけてNHKカルチャーラジオで、「科学の歴史を旅してみよう」の再放送を聴くことができました。内容も大変面白く、科学史を概観する上では最適なのではないかと思います。そこで早速テキスト(?)を取寄せました。

 小山慶太「科学の歴史を旅してみよう~コペルニクスから現代まで」NHK出版

 この歳で最新の物理学を学ぶことには大変な無理があるでしょうが、科学史ならば楽しく学べるのではないかと思っております。その入門書に最適ではないかと思います。

 話を元に戻します。科学とニセ科学の違いは、科学の本質とは何かということの理解が重要ではないかと考えます。「科学の歴史を旅してみよう~コペルニクスから現代まで」から引用しますと、-以下引用-「ニュートンの力学が体系化されるのは、一六八七年に刊行された『プリンキピア』においてである。その中でニュートンは、普遍性という視点の重要さをいくつかの例をあげ、こう述べている。「同じ自然の結果は同じ原因で説明されなければならない。たとえば、人間の呼吸と動物の呼吸、ヨーロッパにおける石の落下とアメリカでの石の落下、台所の火の光と太陽の光、地球における光の反射と惑星における光の反射などがそうである。」 一見バラバラに見える諸々の現象の中から同じ原因を抽出することにより、法則が確立され、今度はその法則を適用して演繹的に他の現象を理解することが可能になる。このようにして、リンゴの落下も天体の運動も同じ原因(重力の作用)により統一的に扱われるようになるのである。-引用終わり- この普遍性が近代科学の本質であると。科学の本質を追及していけば、自ずとニセ科学との峻別が可能になるものと考えます。

 もとより、私は科学者ではありませんので、私が疑問に思うことを否定するつもりもありませんし、その裏付けようとするつもりもありません。単に私の疑問を呈していくしかないと思っております。そして、皆様がどのようにお考えになられるかといったことであろうと思います。

 最後に、私が勉強させていただいているサイトをご紹介致します。

トンデモ科学に気をつけよう(トンデモ科学関連リンク集など) 」「物理学会でのシンポジウム「『ニセ科学』とどう向き合っていくか?」について 」「謎の疑似科学世界あるいはトンデモ・ゾーン(疑似科学・トンデモについて知るためのリンク集)」「市民のための環境学ガイド(環境問題をいかに正しく理解するか)」「水商売ウォッチング(水、マイナスイオン、トルマリンなど-商売のために科学を騙るな)」「「ニセ科学」入門」「疑似科学とのつきあいかた(全学前期水5)


原子力発電は環境にやさしい?

2013-01-02 | 政治・経済・社会

 かつて地球温暖化対策のために原子力発電比率を大きくする必要があると議論されておりました。今は「原発ゼロ」を訴えている菅元総理でさえ、原子力発電を肯定していたと記憶しております。その論拠として、原子力発電は地球温暖化物質である二酸化炭素を排出しないということが挙げられております。確かに、原子力発電によって二酸化炭素はほとんど排出されません。

 だからといって環境にやさしい(環境に負荷を与えない)といえるのでしょうか。事故等々で放射能が環境に放出されることは、環境に対して致命的な影響を与えることは言うまでもないことでしょう。ここでは、そのことについては考えないことにします。

 原子力発電所は、核分裂により莫大なエネルギーを発生させ、その一部を電気エネルギーに変換するものです。核反応により発生するエネルギーの内で電気エネルギーとして取り出せる割合(発電効率)は、諸説あるようですが35%程度といわれております。

 では残りの65%はどうなっているかというと、それは捨てられていると言うことです。どこに捨てられるかというと、それは自然環境そのものにと言うことです。日本の原子力発電所が海の傍に建設されていることは、ご承知のことと思います。要は、電気エネルギーとして取り出せなかったエネルギー、そのほとんどは熱エネルギーとして海に捨てているのです。

 また、先ほどの発電効率は、原子力発電所での効率であって、発電所から遠く離れた需要側に電気エネルギーを運ぶために送電線、変電所、配電線を経由します。ここでもエネルギーロスが発生します。このエネルギーロスは、長距離であればあるほど大きくなります。このエネルギーロスは、ここでもほとんどが熱エネルギーとして環境に放出されます。

 そして、我々需要家においても、電気製品で消費することによって、時間の差があるとはいえ、そのほとんどがこれまた熱エネルギーとして環境に放出されます。

 このように、全体的にみれば、核反応で発生するエネルギーのほとんどは、熱エネルギーとして環境に放出されているということになります。これは、原子力発電のみでなく、火力発電など化石燃料を使用した場合でも同様のことがいえます。

 一方、水力発電、太陽光発電、風力発電などの太陽エネルギー由来のエネルギーにおいては、元々地球にふりそそいだ太陽エネルギーですから、地球にに新たな環境負荷を与えるものではありません。化石燃料も元々は太陽エネルギーであったともいえますが、厖大な時間を費やして蓄積したエネルギーを極短時間の内に消費しているのですから、環境負荷が大きいものと考えます。

 このように考えれば、自ずと環境負荷の極小化を目指すのであれば、太陽エネルギー由来の自然エネルギーにシフトせざるを得ないということになります。但し、この道は大変な困難が待ち構えております。即ち、太陽エネルギーそのものは莫大ではありますが、我々が欲するエネルギーを取り出すには余りにも広大な面積を必要とするからです。

 いつの日にか、技術革新によって100%自然エネルギーで賄える時代が到来するかも知れません。それまでは、既存の手法に改善を加え、困難を乗り切っているしかないものと考えます。


エコポイント制度復活か?

2013-01-01 | 政治・経済・社会

 麻生財務大臣閣下は、ご自身の政権時代に導入したエコポイント制度に自信をお持ちのことと思います。景気浮揚を最優先の目標とする安倍政権としても、実績のあるエコポイント制度を復活させたいと考えるもの無理からぬものがあります。

 エコポイント制度は、景気対策としては有効な手段でありました。しかしながら、「家電エコポイント制度は増エネ政策だった?!」でも述べておりますように、制度設計如何によっては増エネを招きかねません。麻生政権の時代には、少々の増エネは仕方なかったのかも知れません。しかし、電力不足が懸念される現状においては、増エネなき景気浮揚策でなければなりません。

 その点を慎重にご検討いただければと考えます。


謹賀新年(2013)

2013-01-01 | ブログ

 新年あけましておめでとうございます。

 昨年の年末に政権が交代するなど、今年は激動の一年になるような予感です。良い方向に進んでくれることを願うばかりです。

 今後も政権に対しては、色々とツッコミを入れさせていただきたいと思っております。もっとも、民主党政権時代より数は減るとは思いますが・・・。

 さて、エネルギー政策もなかなか方向性が定まりません。特に、原発の位置付けが政権交代で大きく転換しようとしております。

 以前も「原発政策決定には国民投票を!」や「原発の運転再開は住民投票で!!」で書いておりますように、このような重要な政策決定に関しては、政権の中の議論ではなく直接国民や関係住民が投票によって決すべきであろうと考えます。

 今回の総選挙で、政権与党は圧倒的多数の議席を有しております。しかしながら、この選挙結果をもって、原発政策を白紙委任したと解することはできないものと考えます。

 政権に決定を委ねてしまえば、所詮他人事のように捉えることでしょう。万一事故が発生すれば、人の所為にしたくなるでしょう。電力不足が発生したり、電気代が高くなったら抗議の声が巻き起こるでしょう。決定に直接に関わることによって、ことの本質を真剣に考えるようになるでしょう。

 国民や住民が直接決定に関わるということは、その結果の責任も引き受けるということです。原発をなくすのであれば、電力不足の発生や電気代が上がることを覚悟をすべきです。原発を持続させるのであれば、事故の発生を覚悟すべきです。このような覚悟を持つためにも直接投票を実現すべきであると考えます。

 新年早々、もっと夢のあるテーマをとも思いましたが、ついつい現実的な問題になってしまいました。