じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

佐伯啓思「社会が失う国語力」

2019-12-28 13:12:45 | Weblog
☆ 今朝の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」のページ、佐伯啓志さんが「社会が失う国語力」と題して寄稿されていた。共感できる論稿だった。

☆ 高校のカリキュラム「現代の国語」が「論理国語」と「文学国語」に分割される「改革」と言う名の「改悪」、実用を重視するPISA学力に疑問を投げかけ、「過度の情報化と競争社会」の中で失われていく国語力、読解力を危惧している。

☆ 「読解力とは、著者の意図を正確に読み、かつそれを自分なりに解釈すること」と定義し、「著者の意図を正確に読み取るには、著者の立場や気持ちがわからなければならない。そのためには経験と想像力がいる」そして「経験と想像力と養うには、様々な障害とぶつかり、自明とされていることに疑問をもち、それらを自分の頭で考えてみなければならない。正しい結論などどこにもない」と明快に述べる。実に心地よい。

☆ 学力向上が至上命令になっている今日、「学力低下が起きると『改革』が行われ、ただただ学校教育現場の負担が増える」と悪循環を指摘。「余計なものをできるだけ減らして、もっとも根本的なところへと立ち返るべきなのである」と結んでいる。


☆ 学校のスリム化が叫ばれたのは1980年代だろうか。「新しい学力観」に基づく「ゆとり教育」は一つの解答であったが、「改革」が成熟する以前に反動化の巻き返しが起こった。ぐるっと20年巡って今度は「アクティブ・ラーニング」と姿を変えて実態は不明瞭なまま言葉だけが独り歩きしている。

☆ 公教育、とりわけ教育内容の根本とするところは昔なら「読み、書き、算」。私は基礎基本と人権教育だと考える。基礎基本に関してはミニマム・エッセンシャルを定め、ほぼ学年も取り払い、到達度に応じて完全習得を目指すようにすれば良いと思うのだが、問題は非効率性と学力の二極化が一層進むということだ。(能力に応じてと言うなら憲法の理念に合致するが、家庭の経済力が影響するからやっかいだ)

☆ 底辺層を重視すれば、一定割合存在する高位層はさほど影響を受けないが、中位層が没落し、低位に移行する。結局、正規分布が二極分布になる。「ゆとり教育」でこの傾向が見られた。

☆ そもそも数値化できるものだけが教育ではない。数値化できないものこそ人間の成長にとっては重要かもしれない。昨今「教養」の価値が低下している。実用を重視すればするほど一見無駄に見える「教養」が軽んじられるようだ。

☆ 私が大学生の頃、「学校はムダなことを学ぶためにある」と言ってのけた教官がいた。一つの見識だと思う。点数に追いまくられ、合理化を追求するあまり、私たちは「ムダの効用」を見逃しているのかも知れない。

☆ 本を読むのも、旅に出るのも、クラブ活動をするのも、短期的なテスト結果を尺度とすればムダな営みかもしれない。しかし、短期のテストの結果に一喜一憂することにどれほどの意味があるのだろうか。

☆ ゆとりをもってムダな時間を過ごすこと。人としての器を大きくすることが大切だと思う。英会話にしても定型句を覚えるだけでは深いコミュニケーションは期待できない。それでは人間関係が深まるはずもない。「何を」話すのか。相手に話す価値を認めてもらうような土台が必要だ。論理国語を鍛えるのは良いが、文学作品の鑑賞が軽視されることのないようにして欲しいものだ。文学作品は作中人物の生きざまを通じて、生きる上での課題や問題提起に直面することができる。

☆ 現在はややもすると、生まれてから死ぬまで、すべてが数字で表現され、カネ勘定で評価される生き方だ。生きるということにはもっと深い意味があるのではなかろうか。
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