年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<28>清澄橋

2010-07-04 | フォトエッセイ&短歌
 隅田川大橋を渡って江東区側の「隅田川テラス」に出る。対岸に20階の高級賃貸マンションリバーサイド読売ビルが聳えている。お値段は… 聞いても手が出ないし関係ないか。中央の吹き抜けは風の通り道か、斬新なデザインのようでもあるが野暮な感じもする。
 水質汚染で問題になった隅田川も何とか回復し、異臭が漂う事もなく船艇が行き交っている。江戸から明治にかけて、隅田川(本名は荒川)は、密集した下町を貫いて海に注ぎ、大川と呼ばれ、白魚がすむほどだったとあるが、すっかり様相を変えている。

<この地点、高速道・一般道路・舟の航行・更に地下には鉄半蔵門線が通る>

 読売ビルから川上に300mの地点が清洲橋(きよすばし)の袂で、勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財に指定された能書のガイド版ある。関東大震災の震災復興事業の象徴とかで「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインの橋であるという、素人には分からない。当時世界で最も美しい橋と呼ばれたドイツのケルン市にあった大吊り橋をモデルにしたとある。

<当時の最先端技術による昭和初期を代表する吊橋として重要文化財に指定>


 1630年頃、江戸幕府が始まった頃、この辺りは沼地だったが、幕府の土地開発の方針もあって開拓が進められた。清住弥兵衛も開拓者の一人で「弥兵衛町」と呼ばれ、年貢も免除されたという。それから約400年近くが経とうとしている。
 明治6年には、深川佐賀町の青木安兵衛が東京府知事の許可を得て始めた「中州の渡し」も昭和3年、清洲橋の完成でその幕を閉じた。清洲橋(きよすばし)の名は建設当時の両岸の町名であった、深川区「清」住町と日本橋区中「洲」町からとられたいう。

<「中州の渡し」の渡船場も廃止され、川面の風を受けながら散歩がてらに>