年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<31>小名木川

2010-07-18 | フォトエッセイ&短歌
 清澄庭園正門の前方の清澄橋通りを横断して200mほど進むと小名木川にぶつかる。地図でみると隅田川と荒川を直線で結ぶ5km弱の川である。
 徳川家康が江戸入府後まもなく小名木四郎兵衛に命令して開削させた運河だ。行徳(ぎょうとく:千葉県市川市)の塩を舟で江戸に搬入する目的の堀。巨大な消費都市となった江戸への物資搬入にも活躍し運河は拡大整備・改修も進んだ。その結果、利根川、江戸川を経て江戸へ物資を運ぶ航路が拓かれ、近郊の農村で採れた野菜、地方の酒、東北地方の米などを江戸に運ぶ大動脈となった。

<西深川橋辺り。干鰮商人の蔵が軒を連ねていた干鰮の荷揚場だったか>

 江戸時代も中頃になると貨幣経済が発達し、米(年貢)だけつくっていればよいという時代ではなくなった。商品作物(売って現金を得る農作物:綿・茶・麻)の栽培が盛んになった。そのためには有効な肥料が必要である。当時の優良肥料は干鰯(ほしか=イワシを天日で干し固めた肥料)である。千葉方面で大量にとれた鰯(イワシ)を干しあげ,小名木川を使って江戸に送り,干鰮場で荷揚され各地に運ばれたという。
 その干鰮場跡が清澄橋通りの白河小学校校門にあるというので訪ねたが、見つからない。白河小学校は生徒の減少で平成13年度をもって廃校となっていたのだ。現在はK.インターナショナルスクール東京(KIST)となって各国の子弟のスクールとなっていたのだ

<インターナショナルスクールの門前に江戸の干鰮場跡の碑が時代を語る>

 江戸時代、江戸の西側の守りが箱根の山であったのに対し、東の玄関口として、水の関所というべき役割を果たしたのが、中川船番所である。
 そのために小名木川の入口には船番所が置かれ、箱根の関所と同様「入り鉄砲・出女」の監視にあたると共に米・塩・酒など物資の出入りの管理もした。

<小名木川の高橋から水門を見る。水門を出ると隅田川で日本橋に繋がる>