年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

鎌倉Ⅰ<6>辻説法

2010-02-11 | フォトエッセイ&短歌
 本覚寺門前の南北に走る道路を小町大路(こまちおおじ)という。夷堂橋を南(右方向)に進むと材木座海岸に至る「鎌倉時代随一の商業地区」で庶民的街であったという。舟運で運ばれた物資が取引されたのであろう。八幡宮に向かう北方面が幕府高官・有力御家人の屋敷が並ぶ、鎌倉の心臓部である。
 小町大路は、鎌倉幕府による都市計画の中核をなす「六大路」の一つで、メインストリートの若宮大路の東側を並行する。

<閑静な住宅街となっている小町大路。通称「辻説法通り」とも呼ばれている>

 小町大路が「辻説法通り」の異名があるようにここら辺りで日蓮が盛んに辻説法を行っている。日蓮上人は法華経こそ仏教の神髄であるとして「南無妙法蓮華経」の題目を唱えよ!他の宗教は邪教であるから惑わされるな!と他宗派を激しく攻撃し、邪教を許している幕府をも強く批判した。
 日蓮上人は小町大路の街頭に出て、道行く人々にこの教えを説いた(辻説法)。鎌倉仏教の興隆期でもあったので他の寺院から怒りをかい、幕府の弾圧も繰り返された。しかし、これを法難ととらえ弾圧に屈せず、民衆の側に身を置いて日蓮宗を布教していった。

<日蓮上人の辻説法跡碑。広宣流布の捨身の言論活動を続けた生涯でもある>

 鎌倉には、日連上人の足跡が多く、日蓮宗の寺院も多数ある。日蓮は1282(弘安4)年、武蔵国池上で60歳の激しい生涯を閉じた(本山は甲斐国の身延山久遠寺)。その後六老僧と呼ばれる弟子達(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)によって日蓮宗は独特のあゆみを重ね、日本の仏教界に大きな地歩を示している。
 「辻説法碑」の近くにある妙隆寺(みょうりゅうじ)もその一つ。第二祖、日親上人は立正冶国論の一書を献じ足利義教将軍の政道を糺そうとしたが捕らえられた。そして、水・火・湯鑵(熱湯ぜめ)の拷問にあい、舌端を切られ、ついには焼き鍋を被せられる極刑を受けたが、よく耐え忍んで法華経公布につとめたとされる。

<「鍋かむり日親」で今も語り継がれる妙隆寺。右手は100日間の水行の池>