年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

鎌倉Ⅰ<7>幕府移設

2010-02-16 | フォトエッセイ&短歌
 日蓮の辻説法跡碑を後に小町大路を北に進むと土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)屋敷跡がある。
 頼朝は不和となった京都の義経を討つために軍議を開いたが、誰も引き受ける者がいない。そんな中で土佐坊昌俊が進み出てこれを引き受けた。昌俊は「下野に住む老母と子供たちに憐憫を与えてやってほしい」と言上すると頼朝は快く承知した。
 文治元年(1185)、昌俊は手勢を率いて京都へ赴いたが、撃退されてしまった。逃げ込んださきが鞍馬山、義経ゆかりの鞍馬の僧兵たちに捕らえられ、六条河原で斬殺された。

<土佐坊昌俊の屋敷跡。頼朝対義経の骨肉相食む鎌倉物語の一つである>

 更に小町大路を進むと横大路(よこおおじ)にぶつかり右手が宝戒寺(ほうかいじ)山門である。このシリーズのスタート地点に戻った。横大路は鎌倉幕府の中核を成す「六大路」の一つで重要な軍事道路である。
 「梶原景時、罪にて鎌倉中の道路を作るよう頼朝より命ぜられた」という類の記録が少なくない。頼朝の「道路整備好み」というから精力的に道路建設に励んだようである。
 横大路を左に折れ200mも進むと鶴岡八幡宮の三の鳥居にでる。

<神社仏閣が多い鎌倉は鳩も過密である。石垣にかじるついて生活圏を必守>

 若宮大路を鎌倉駅方向に下り、教会を左折すると幕府跡がある。関東を平定した源頼朝が鎌倉に入って1192(建久3)年、征夷大将軍となり鎌倉幕府に開いたのはよく知るところである。幕府の所在地は大倉御所(おおくらごしょ)と呼ばれ、現在の清泉小学校の一帯で角地に幕府跡碑がある。
 ところが、3代将軍源実朝が殺害されると源氏血統の後継者は無く北条一族が政権を握った。第3代執権であった北条泰時の時、幕政の中核となっていた北条政子が死去する。心機一転を図る目的で幕府政庁の移転を行った。国会を移設したみたいなものである。
 幕府の有力御家人宇都宮氏の邸宅があった所に移ったので宇都宮辻子(うつのみやずし)幕府と呼ばれる(辻子(ずし)とは小道のことある)。

<宇都宮稲荷神社が祀られている宇都宮辻子幕府跡。これにて鎌倉Ⅰは終了>