年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

鎌倉Ⅰ<5>夷堂橋

2010-02-06 | フォトエッセイ&短歌
 鎌倉幕府第2代将軍は頼朝の嫡男、頼家(よりいえ)であるが、習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招いた。ために、有力御家人十三人の合議制によって政治を進める事になった。頼家が重病に陥ると3代将軍をめぐる隠謀密約の主導権争いが激化する。
 頼家の子(一幡=いちまん)派の比企氏と、頼家の弟(実朝=さねとも)派の北条氏が対立した。北条時政は先手を打って仏事にこと寄せて比企能員(よしかず)を自邸に呼び寄せ殺害した。比企一族は一幡の邸である小御所(現:妙本寺)に立て籠もって奮戦したが北条氏に敗れ、一族は討死・流刑・死罪の処断がなされた(比企能員の変)。
 能員の末子である2歳の男子が助けられた。この男子が比企能本(よしもと)で、後に許され鎌倉に戻り、比企一族の菩薩を弔うために妙本寺を建立した。鎌倉時代に幾つもあった御家人サバイバルの一つであるに過ぎない。

<頼家は修禅寺に幽閉され暗殺。実朝も公暁に襲われ落命源氏は3代で滅亡>

 妙本寺から若宮大路に向かうと滑川に架かる夷堂橋(えびすどうばし)がある。夷堂橋は「鎌倉十橋」の一つで琵琶橋・勝の橋・裁許橋などの名称が如何にも鎌倉的である。どうも江戸時代頃の風流人の、あるいは観光業者の「鎌倉の名数」遊びの一つであるようだ。
 鎌倉五山、鎌倉七口、鎌倉十橋、鎌倉三十三観音などのように名数で史跡を伝えたという説である。ともあれ、後世の破滅的な行く末など露ほども疑う事のなかった、愛しき頼朝と政子は二人して夷堂橋を渡り乳母の比企尼(比企一族)の屋敷(妙本寺)を訪れたのであろう。

<鎌倉十橋の一つ夷堂橋。コンクリのつまらない橋だが擬宝珠の感じがいい>

 夷堂橋の袂に夷堂(えびすどう)があった、というか、夷堂の前に橋があったので夷堂橋といったのか。この夷堂に1274(文永11)年、佐渡流罪をご赦免になり、鎌倉に戻った日蓮が一時滞在し辻説法などの拠点としていたことから、日蓮宗に改め本覚寺(ほんがくじ)の創建となった。2世日朝のとき身延山から日蓮の遺骨を分移、東身延と称し栄えた。

<夷堂橋の袂の「本覚寺山門」脇の七福神の一人、夷様を祀っている夷堂>