年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

鎌倉Ⅰ<4>祇園山

2010-02-01 | フォトエッセイ&短歌
 東勝寺跡にある「腹切りやぐら」から「祇園山ハイキングコース」が設定されている。馬の背を20分も上り下りすると、祇園山に達する。鎌倉が急峻な山に囲まれた天然の要塞都市であることが分かる。
 しかし、現在、この土地を激しく侵略しているのは武士達ではなく宅造達である。開発が進み住宅が山の裾から中腹まで攻め込んでいる。歴史的風土特別保存地区などを盾にどうやら守っているという状況だ。これ以上の開発は世界遺産指定にはとても無理となるか…

<祇園山展望台から由比ヶ浜・材木座海岸を一望する。冬の陽を鈍く映している>

 「祇園山ハイキングコース」の終点、祇園山展望台から15分の山裾に八雲神社(やぐもじんじゃ)がある。八雲神社は「お天王さん」の愛称で親しまれている大町の鎮守で鎌倉で最も古い厄除開運の神社と伝えられる。
 新羅三郎義光が八幡太郎義家の助勢(後三年の役)のため鎌倉に立ち寄った際、疫病が流行っていたため京都の祇園社から祭神を勧請し、祈願したところ、疫病は退散し、住民は難を逃れたといわれている。
 従って古くは祇園社(祇園さま)であった。祇園さまは「牛頭天王(ごずてんのう)と素戔男尊(スサノウノミコト)を祭神とする神仏習合。これが問題だった!明治の神仏分離で整理整頓され「牛頭天王」という社号が禁止され、八雲神社に名称を変えさせられた。

<牛頭天王はどこに追放されてしまったのか。神道国教化の犠牲である>

 八雲神社から閑静な住宅街を少し歩くと参道の杉木立が屹立する妙本寺(みょうほんじ)に至る。この辺りの地勢は祇園山の麓に入り組んだ「谷戸」で比企ヶ谷(ひきがやつ)と呼ばれている。
 鎌倉時代に比企能員(よしかず)一族の屋敷があったからである。比企能員は源頼朝の信任厚く頼朝の死後も源氏を支えた。それが災いして北条氏から睨まれ、挑発を受けて比企の乱で滅ぼされた。

<妙本寺の無念のメッセージか。賑やかな鎌倉の寺社にあって寂として揺れず>