年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<19>霊厳島公園

2009-10-11 | フォトエッセイ&短歌
 日比谷線の八丁堀駅を出て新大橋通りを少し戻ると桜川公園がある。八丁堀に繋がったと思われ桜川(運河)は大川(隅田川)河口に入港した菱垣回船、樽回船などの荷を小型舟に積み替えて亀島川、日本橋川、京橋川、楓川など江戸八百八町に物資を運んだ舟運ネットワーク一本である。
 周囲には各種の蔵が建ち並び、江戸時代から昭和期まで4世紀もの間、重要な運河として、材木や酒樽などが運ばれて江戸経済を支えてきた。戦後、これらの河川や堀はドンドン埋め立てれビル街に生まれ変わっている。とりわけ東京オリンピックをきっかけに東京大改造が進み水路は壊滅し「桜川」も姿を消した。

<幻となった桜川の「掘」は桜川公園としてその痕跡を留めるばかりである>

 桜川公園から亀島川の高橋を渡るとの新川にでる。江戸時代「霊厳島」といわれた島(洲)で江戸の始めに埋め立てられたが、ここにも「新川」と呼ばれる運河が掘られている。1660(万治3)年に河村瑞賢(かわむらずいけん)が開削したものと伝えられる。
 河村は江戸前期の商人で海運・治水の功労者。土建業を営み、幕府や諸大名の工事を請け負った。1672年に出羽国の幕領米の江戸回漕に従事し、房総半島を迂回する東廻航路(東廻海運)、日本海から下関・大坂経由の西廻航路(西廻海運)を確立するなどして晩年に旗本に取り立てられた。広大な屋敷地もこの一画に与えられ、永代通りに屋敷地跡のガイド版があるが、見る人もなし。

<新川も幻となったが、隅田川と合流させた地点に「新川之碑」が建立さた>

 亀島川と日本橋川と隅田川に囲まれた新川(霊厳島)に1624(寛永元)年、雄誉霊岸上人が霊岸寺を創建して土地開発の第一歩を踏み出した。その後、寺の南方に越前福井の藩主松平忠昌が浜屋敷として拝領している。屋敷の北、西、南三面に舟入堀を掘って越前の地産品を運び込んでいる。越前堀の地名が残った理由である。
 その史跡として新川の一画に越前堀公園(霊厳島公園)を造成して、発掘された石垣石の一部と「霊厳島」の碑を建てて記念している。

<越前堀の発掘された石垣石の一部。後の自然石が「霊厳島之碑」である>


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