年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<21>永代橋深川

2009-10-23 | フォトエッセイ&短歌
 東京の中心、大手町から日本橋・兜町などを通る永代通りを東に進むと隅田川に架かる永代橋である。この橋は5代将軍徳川綱吉の50歳を祝して架橋(元禄11年)された隅田川で四番目のものである。(千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋)記録によれば、架橋を行ったのは関東郡代の伊奈忠順。上野寛永寺造営の際の余材を使ったとされる。
 その後、火災、流失、震災など幾度もの架けかえを繰り返し昭和3年に現在の橋に生まれ替わった。ドイツ、ライン川に架かるルーデンドルフ鉄道橋をモデルにした最古のタイドアーチ橋で日本で最初に100mを超えた橋でもある。「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われた優美な男性的な橋としてライトアップ橋の一つとして人気も高い。

<頑強かつ優美。勝鬨橋・清洲橋と共に国の建造物重要文化財に指定される>

 永代橋を渡ると江東区深川で、3代将軍徳川家光の時代に富岡八幡宮の門前町として発達し、大変に賑わった街で「深川の辰巳芸者」なども生み出している。しかし、徳川家康が江戸へ入府した頃は湿地帯で葦のそよぐうらぶれた地域であった。
 家康は下総国の領分であった永代島を武蔵国に編入して、深川八郎右衛門なる者に埋立を請け負わせた。街作りは短時日に終わり、門前町として発展した後は木場が置かれて商業開港地域となり、深川岡場所も設置され一大花街ともなる。
 文化4年の深川富岡八幡宮の祭礼日。詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず1500人を超える史上最悪の落橋事故を起こす。<永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼> 大田南畝が狂歌に書き残している。

<石川島公園から永代橋を望む。木橋落橋事故の遠い歴史を浮かべる川面>

 その富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、都内最大の八幡神社(深川八幡)で、建久年間に源頼朝が勧請した富岡八幡宮 (横浜市金沢区富岡)の由緒ある直系分社、もう故事来歴だけでも長くなる。何れにしろ、源氏の氏神である八幡大神を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護下に置かれたと言うから超ブランド系八幡宮となった。
 町民達にも「深川の八幡様」と親しまれ、歌川広重の広く美麗な庭園の『名所江戸百景』でその人気の様子がうかがわれる。

<永代通りに面する富岡八幡宮の山門から。門前町街として賑わった名残も>