年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<20>八丁堀界隈

2009-10-16 | フォトエッセイ&短歌
 「八丁堀」といえば江戸を背景とした時代劇では欠かすことが出来ない。銭形平次や「鬼平犯科帳」の鬼平の舞台には無くてならないが、すでに「八丁堀」は埋め立てられて堀の場所さえ定かでない。だいたい「京橋川から楓川を経て隅田川に通じる約八丁くらいの舟運」で、現在の京橋ジャンクション付近に至る約0.6kmの河川で首都高速道路がその上を通っているという事だ。
 江戸の始めに造成された八丁堀は寺町としれ寺院が建立されたが、後に江戸城下の拡張計画によって寺院を郊外に移転させ町奉行の配下の与力・同心の組屋敷(居住地=官舎)になったのだ。

<組屋敷は現在の鈴らん通り・平成通り。京華スクエアの前にガイド版がある>

 与力(よりき)・同心(どうしん)は江戸町奉行(江戸の市政を管轄した役所)の役人で行政・司法・警察の役割を担った万能の役人である。そのために「八丁堀の旦那衆」「八丁堀の御役人衆」などと呼ばれて二本差で市中を闊歩したのかもしれない。
 与力は御家人クラスで騎乗を許される身分で一騎・二騎と数えられ、知行200石で300余坪の屋敷地が与えれ冠木(かぶき)門などを構えていた。今の警察署長に相当するといわれる。
 これに対して警察官に相当するのが同心で彼等が捜査の補助や情報源として岡っ引や目明しなどを手先として使っていたという。屋敷地も100坪と狭くなる。
八丁堀の組屋敷には、元禄年間以降だいたい300人の与力・ 同心が生活していた。彼等の勤務先は南・北町奉行である。「必殺仕置人」の藤田まこと演じる中村主水(なかむらもんど)は南町奉行所の同心でよく彼等の状況を表現している。

<八丁堀の組屋敷から南町奉行のあった有楽町駅のマリオンまで徒歩で通勤>

 大捕物が佳境に入って一件落着の頃、騎乗の与力が悠然と登場する。「イヨッ 八丁堀の旦那!」テナ具合に格好いいのだが、実際は犯罪者を取り締まる汚れ仕事として嫌われたうえに給金少なく生活は苦しかった。敷地内に長屋を建てこれを賃貸して収入の道を計っていた。
 そこには、その日暮らしの八っあん・熊さんレベルの職人も多く、雨の2,3日も降れば米を買う金もない連中。そこで八丁堀には質屋が多く、古着屋も軒を並べなかなか賑やかであったとか。
 そんな八丁堀に通じる楓川・桜川・京橋川・三十間堀川・築地川・外堀など全てが埋め尽くされたが日本橋川と亀島川だけが当時の流域を保っている。

<汐の香が漂う亀島川で右側が八丁堀の組屋敷一帯。先は東京駅八重洲口>