年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<10> 築地川幻影

2009-06-20 | フォトエッセイ&短歌
 江戸時代、江戸湾の埋立は非常な勢いで進められた。あるところは掘(運河)として、ある場所は排水の川として計画的に埋め立てられた。本願寺の裏を流れていた築地川(つきじがわ)もその一つである。
 明治初期の頃と思われる古老の話(『銀座・築地物語絵巻』)。築地川は水が澄んでいて、ハゼや手長エビ、ボラが釣れ、上げ汐ともなれば小カレイ、サヨリに黒鯛の子などが海から迷い込んできたし、シジミはつねに採れたといいます……。
 東京湾に注いだこの二級河川(築地川)も現在では埋め立てられ、河口である浜離宮庭園と築地市場の間に500メートくらい面影を残すのみである。

<埋め立てられ公園となった築地川公園。かっての橋をスケッチする子供二人>

 築地川公園の西側に聖路加看護大学(せいるかかんごだいがく)がある。1920(大正9)年、キリスト教宣教医ルドルフ・B・トイスラーによって創立。単なる職業訓練にとどまらず、社会性を備え、人間と社会を理解することができる看護師の育成をめざした(建学の理念)。
 隣には最先端最大と目される、聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん)がある。時の人:日野原重明氏は聖路加国際病院の名誉院長である。この「全館野戦病院化が可能」という日本においては他を圧する各種機能は、1995年の地下鉄サリン事件においてその機能をいかんなく発揮した。

<大学本館と保存された聖路加国際病院旧館。看護師受難の昨今である>

 旧築地川から看護大学・国際病院の一帯は赤穂藩(兵庫県赤穂市)、浅野家の江戸上屋敷があった所で、忠臣蔵で名高い。浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)は1701(元禄十四)年、江戸城中松の廊下で勅使饗応指南役の吉良上野介義央(きらこうずけのすけ よしひさ)に「この間の遺恨覚えたるか」と叫んで斬りかかったのである。
 その真相は不明であるが、即日、切腹を命ぜられるとともに江戸屋敷および領地などは取り上げられた。忠臣蔵の発祥の地である。

<大学脇にある赤穂藩浅野内匠頭邸跡の碑。未だ衰えない忠臣蔵の人気>