年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

檜原・数馬の里

2009-06-01 | フォトエッセイ&短歌

 東京都西多摩郡檜原村(ひのはらむら)。島を除けば東京都の唯一の村(島には人口198名の青ヶ島村など7ケ村ある)。その檜原村の最奥が数馬の集落。1968(昭和48)年の奥多摩周遊道路が開通するまでは日本の4大辺地(肥後の祖谷・越後の三面・秩父の裏山・檜原村の数馬)に数えられていたという。
 今でも武蔵五日市駅から数馬までのバスは1時間1本という心が洗われるようなゆっくりとした時間が流れる。

<秋川渓谷の斜面にへばりつくように点在する傾斜地のわずかな畑と屋敷>

 辺境の地と言えば落人。「源氏に敗れた平家の落人が住み着いた」伝説が定番。この数馬の里も「平家落人」の伝説があるが、「甲斐武田氏の落人伝説」もある。高貴な一族が戦いに敗れて深山未踏の山奥でひっそりと暮らす。それだけで物語となる。
 しかし、史誌によれば「1336年、この村を拓いた中村数馬守小野氏経が南北朝の戦いで南朝方として従軍した」とあるから、落人伝説より南北朝時代の軍事上の拠点であったと考えられる。(「数馬」という地名は中村数馬に由来)
 その中村家が代々神主を受け継いでいる九頭竜神社が里の神社として祀られている。


<訪れる人もない九頭竜神社境内。いよいよ石原都知事も神頼みとなった>

 辺境の里の江戸時代の産業は養蚕、林業、材木の川流しなどだったが、花形産業は「炭焼き」である。巨大消費都市、江戸の需要をまかなったのが檜原村。
 焼かれた炭は急峻な檜原街道を下って五日市まで運ばれる。帰りには穀類・雑貨を背負った牛馬が山道を息を切らせながら登ってくる。危険はつきものである。石仏に道中安全の願いを託した。


<道端に佇む馬頭観音、山の神、地蔵。馬方や旅人の安全を静かに願っている>



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