年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

冥途の一里塚

2009-01-02 | フォトエッセイ&短歌
 何となく期待の膨らむ新しい年が始まった。経済の混迷、政治の停滞、文化の混沌など閉塞感が現実となって生活の足元を掬いはじめた昨年を何とかしたいという願いの表れでもあろうか。
 「犬も歩けばボウに当たる」かも知れない。ポカポカ陽気に誘われて初詣(初参り)に出かける。指折り数えて待った子供の頃の正月の風景は何一つ見つける事はできない。羽根つき?独楽まわし?カルタ?それってなんだ!
 景気低迷で門松もリストラの憂き目、「必殺仕置き人」が一刀両断で断ち切った見事な竹を使った威風堂々の「門松」や「注連飾り」は姿を消している。玄関の辺りに申し訳程度に立てられていたり、ドアにペッタンコされている。気は心、形式的とはいえ排さないのがいい。

<竜宿山西明寺:賽銭は少ないが満願成就を。気合いを入れて詣るとしよう>

 門松は年神が宿るための依代(よりしろ)である。年神が門松に宿り至福の幸をもたらすのでのであるが、お迎えしないと不幸を招くことになる。だから正月の年神祭りは重要な儀式で、すでに平安時代から門松は欠かすことが出来ないめでたい飾り物となっていた。
 一休さんの歌に『門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし』とあるが、複雑な思いで新年を迎える高齢者も少なくはない。

<山門には見事な門松。冥途への旅の一里塚をまた一つ超えてしまった>

 大晦日の賑わいや気ぜわしさも、紅白歌合戦が終わり除夜の鐘が鳴り終わると長閑な初春となる。一年の無事と平安を祈りに出かける。神宮でも八幡宮でも大師でも観音様でも七福神でも地蔵様でも大仏様でも不動様でも何でも良いと言うのが面白い。
 「御利益」に格差はなく神仏はみなあまねく平等だと云うことだ。ワーキングプア、押さえがたい貧困の格差が社会のあるべき姿を壊してしまっている。

<108の大健闘を響かせた鐘楼も穏やかな初陽のなかで憩っている>