年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

牢屋敷:時の鐘

2009-01-12 | フォトエッセイ&短歌
 江戸城にはかなり正確な「和時計」があったが、江戸八百八町の町民は鐘の音で時刻を知った。その鐘を「時の鐘」という。地下鉄日比谷線の小伝馬町駅の近くに十思(じっし)公園があるが、その一隅に「日本橋石町の鐘」とよばれた、幕府公認の「時の鐘」がある。
 江戸城、西の丸にあったが「御座の近くで差し障りある」と、日本橋本石町に移された。
 鐘撞役の辻源七さんは手数料として鐘の音が届く範囲の町民から1ヶ月永楽銭1文を集める権利が保証された。受益者負担である。いまでも除夜の鐘として現役である。

<火事や再建でこんな安普請の安直な鐘楼になった。文化財軽視都政である>

 この十思公園は江戸時代の伝馬町牢屋敷(でんまちょうろうやしき)の一帯である。江戸時代最大の牢屋敷で大牢、拷問蔵、穿鑿所、死罪場、試し切り場などないものナシである。
 刑場の露と消える刑の執行は「石町の時の鐘」を合図に執行される。処刑日には鐘ツキが慈悲心からか鐘を遅らせので「情けの鐘」ともよばれた。井伊直弼の画策した安政の大獄で「情けの鐘」を聴いて斬殺された吉田松陰の「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置かまし 大和魂」の辞世の碑が恨めしそうに鐘を見上げている。

<安政6年10月27日、この地で処刑される。「吉田松蔭先生終焉の碑」>

 牢屋敷が廃止されたのは明治8年。この間、死罪場で斬殺された者、獄死した者、拷問で憤死した者など10万人を越えたという。その為に祟りを恐れて土地の買い手もなく跡地は荒廃した。
 そこで、明治の財界の大物、大倉喜八郎と安田善次郎が入札し、大安楽寺(だいあんらくじ)を建立寄進し、霊を慰めたという。だから「大」「安」楽寺なのである。今、大倉財閥はホテルオークラ、安田財閥は安田生命・東大の安田講堂などの名称で残っている。

<大安楽寺本堂脇に処刑された人々を供養する延命地蔵尊が祀られている>


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