年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

日吉の里・戦時

2008-08-01 | フォトエッセイ&短歌
 東急東横線日吉駅からJR横浜線中山駅間を走る横浜市営地下鉄(グリーンライン)が3月に開業した。南北線の日吉駅始発も始まり日吉は横浜郊外から都心を結ぶ動脈の結節点になり、駅周辺は過密化し始めている。
 1930年代の写真を見ると多摩丘陵の山脈を縫うように東横線が走り、西口を起点に放射状の道路が整然と通じている。その幾何学模様の道路に沿ってポツポツと何棟かの家が建っている。そして、東側の切り開いた台地には白亜の城のような慶應義塾(予科)の校舎が聳え建っている。勿論、名物のキャンパスのイチョウ並木は見当たらない。
 夏の陽射しを押し返すように若者達が休暇中の閑散としたに構内を闊歩している。戦争の残酷さも戦後の飢餓とも無縁な世代である。

<構内から日吉駅を望む。イチョウ並木が酷暑をさえぎり涼を漂わせている>

 1934年に郵便局が、1936年に電話局が開設されそれがトピックになるほど日吉はド田舎であり、野ウサギの飛び交う雑木林の木を切って炭焼きなども行われていた。長閑な風景ではあったが、中国大陸では日本軍の泥沼の死闘が始まろうとしていた。大本営が設置され南京大虐殺が行われたのは37年である。
 戦時体制は日々強化され4年後には真珠湾の米軍基地を奇襲攻撃し太平洋戦争に突入。「独立自尊」の自由主義的伝統を持つ慶應義塾も軍国主義に抵抗する事が出来ず軍事教練が徹底され500人を学徒出陣で戦場に送り出した。第1校舎前で軍事教練の行進を行っているセピア色の写真が戦時体制を滲ませている。

<この第1校舎を軍令部第3部(情報部)が使用。連合軍の情報・分析をする>

 ミッドウェー海戦で日本軍が敗北した後、西太平洋の島々では玉砕戦術で抵抗した。局地戦で勝つことはあったが、基本的には負け続けこれ以上の後退は許されない「絶対国防圏」を設定して不退転の戦術をとったが、これが簡単に破られサイパン島が全滅するとB29戦闘爆撃機による本土空襲が始まる。
 1944年2月、海軍軍令部(天皇に直属する中央統帥機関:大本営)は空襲を避けるために慶應義塾に移転してきた。続いて海軍省や連合艦隊司令部までもが日吉に移転してきたのだ。校舎は兵舎となり、日吉の里は海軍の軍都の感を呈するようになっていった。

<山すそにある連合艦隊司令部(海軍総隊司令部)まむし谷地下壕入口>