年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

日吉の里・艦隊

2008-08-06 | フォトエッセイ&短歌
 連合艦隊司令部がなぜ日吉台の陸に上がったのか。「保存会」のパンフは4点を指摘している。①大本営と横須賀軍港に近い ②無線の受信感度が良好 ③空襲対処の地下壕が掘れる ④校舎・内装が頑丈で設備良好。
 1943年、御前会議で絶対防衛線の後退を決定、出陣学徒壮行会、徴兵年齢19歳に引き下げなど戦局の悪化は銃後の生活などによって実感され始めた。44年3月、海軍軍令部第2部(情報部)は慶應義塾の第一校舎(現:慶応高校)に撤退してきた。今年、慶応高校は全国高等学校選手権大会に出場を果たしたが、そのグラウンドの下の地下壕を見学する。
  
<46年振りの甲子園出場。真っ黒に日焼けした球児が甲子園に向かった>

 7月にはサイパン島守備隊が全滅すると、東京・横浜が爆撃の射程距離に入った。8月、連合艦隊司令部の旗艦の安全確保に危機感を抱いたのか、設営隊は総力を挙げて地下壕を掘り始めている。本土決戦の要項が出され、日吉台国民学校の生徒が近くの真福寺などに集団疎開させられると、海軍省功績調査部が校舎を接収して入ってきた。
 日吉の里は海軍の街に変わっていく。海軍省人事局も別の一郭に地下壕を掘り始め、更に箕輪地区には艦政本部も2400㍍の巨大地下壕を掘り進めていた。

<4月の空襲で日吉台国民学校は焼失、校庭の防空壕は戦後も見られたが>

 1944年9月29日、連合艦隊司令部は日吉:慶應義塾に移り、連合艦隊第一作戦指令所と名称を変え地上から艦隊を指揮する事になった。いわゆる「捷号作戦」である。現有戦力の八割を掻き集めて連合軍に打撃を与え、戦争終結に有利な条件をつくるというものである。
 日吉の草鹿連合艦隊留守司令部は「捷1号・捷2号作戦」を発令したのが、10月12日。結果的には惨敗し制空権・制海権を失い、艦隊の戦闘能力は事実上壊滅した。

<地下作戦室(暗号・通信室)への通路。陸に上がった海軍、次は地下に潜る>