年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

日吉の里・番外

2008-08-16 | フォトエッセイ&短歌
 連合艦隊司令部と海軍省人事局の地下壕は慶應義塾の敷地内にあるが艦政本部(艦船や兵器など整備・準備する行政的部門)地下壕は東横線を挟んだ西側(箕輪地区)の大聖院(だいしょういん)の裏山にある。その尾根は「夕日が丘」と呼ばれ、多摩丘陵に沈む夕日が一望出来る。その残照は絶景である。
 工事は1945年1月、坪2円の強制買収、家屋の強制移転、朝鮮人労働者の酷使、掘り出した土の放置など軍部の強権で推し進められた。物資不足は軍の力でも如何ともし難く、田園調布の焼け跡から大谷石やブロックを運び込んで地下壕を固めている。完成は8月14日、全く無用な大土木工事となった。

<地下壕のある斜面は鬱蒼とした竹林で被われている。壕の見学は出来ない)

 地下壕工事の真っ最中に日吉は3回も空襲に見舞われている。機銃掃射は連日だったという。慶應義塾の校舎、箕輪地区の半数、日吉台国民学校などが焼失している。海軍の街、日吉の里は狙い撃ちにされたのである。
 大聖院本堂も丸焼けになった。境内のイチョウなども焼夷弾の直撃を受けたが、枯れることはなく、今は元気に新しい枝を伸ばして戦争を語っている。
 
<中庭のサルスベリも戦災樹木。ケロイドのような痕跡が痛々しい>

 8月13日の夜、幕僚全員を召集した小澤海軍総司令長官は無条件降伏の決定を伝えた。ある参謀は「ホッとしたと言うのが、偽らない本音である」と述懐している。8月15日の正午「村じゅうは、物音一つしなかった。寂として声なし」(宮本百合子『播州平野』)
 だが兵士達は慌ただしかった。軍関係の建造物は形が残らないまでに徹底的に破壊した。また大きな穴を掘って、数日間、帝国海軍の戦争指導を隠すために機密書類を燃やし続けたのである。これは、どこでも共通した行為である。早くも9月7日には軍令部が使用していた第一校舎にアメリカ軍が入ってきた。
 日吉の里は米軍の街になった。日吉キャンパスが総て返還され学生の街になるのは49年10月1日である。
          
 <ハウスを乗り越えて、たわわに実るミニトマトが8.15の午後の陽に輝く>


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