年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

日吉の里・壊滅

2008-08-11 | フォトエッセイ&短歌
 『将兵一同、必至の体当たりの勇戦によって、敵を殲滅せよ』(豊田司令長官)と最後の大決戦に挑んだ。一発かまして何とか休戦の有利な状況をつくろうとしたフィリピン沖海戦である。しかし、時代は戦艦から航空機の時代に移り戦術をたてる事もままならず、恐ろしいほどの損害をもたらして敗北する。多くの戦史が語っている。この段階で大日本帝国は和平・休戦を決断するべきであったと!
 もはや通常の攻撃は不可能というか、まともに対峙出来ない。ここに究極の非人道的な戦術、特別攻撃(体当たり自爆)が生み出された。 
 日吉の慶應義塾構内のチャペルも海軍軍令部に貸与され、情報収集の作業場にあてられたという。

<チャペルの裏側より。老朽化した赤い屋根に夾竹桃の赤が揺れる>

 最初の神風特別攻撃隊はフィリピン沖海戦の後半で、爆弾を搭載したゼロ戦5機(敷島隊)が飛び立ったのは10月25日である。3機がセント・ロー(護衛空母)に突撃しこれが沈没、雀躍欣喜。ヤッタゼベイビーと言うわけで大和隊、山桜隊が続き、日本陸海軍の戦術は特攻隊が主流なり、3000機が飛び立ったという。
 日吉の連合艦隊司令部地下壕通信室はこの瞬間を逐一傍受していた。鹿児島県鹿屋基地から出撃した特攻機はアメリカ艦隊に接近すると信号音を出して体当たりする。ツーという信号音が突然途絶える。体当たりしたのか、撃墜されたのか…その兵士の無惨な死の瞬間を日吉の地下壕で傍受していたのである。

<耐弾式竪穴坑(竪穴式の空気坑):地下壕の空気取り入れ穴の地上部分>

 アメリカ軍は1500隻の艦艇、1000機を超える航空機、30万の兵員を投入し、沖縄の占領に向かった。日本側は防御の手立てもなく、不沈戦艦大和(ヤマト)を沖縄に突入させるという水上特攻作戦を考えた。伊藤第2艦隊司令長官は余りに無謀と了解しなかったが、「一億玉砕、一億総特攻のさきがけになってもらいたい」(参謀長)に押し切られた。
 こうして、「光輝ある帝国海軍の栄光を後世に伝えんことにほかならず」と戦艦大和は上空掩護の戦闘機もないまま日吉の地下壕からの命令で出撃した。そして、1945年4月7日14時23分、鹿児島県坊の岬沖で400機による空襲を受け沈没するが、その様子が刻々と「連合艦隊司令部」に入電し、電信員は涙ながらに受信したという。これで日本海軍の水上部隊の総てが終わった。
       
<地下壕作戦室の見学。近くに地上司令部につながる126段の階段坑がある>


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