年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

松代-終章:風林火山

2007-12-04 | フォトエッセイ&短歌
 NHK大河ドラマも川中島の合戦を最後に終わりとなる。ドラマのENDマークが出た後は総集編があって紅白歌合戦があって、行く年来る年で今年も終わりだ。駆け足の1年間、月めくりのカレンダーも後がなく寂しい限りだ。すでに食傷気味の風林火山だが松代に来たついでに風林火山の里:信州版の一席を。
 犀川と千曲川が交わって信濃川になるがその中州を川の中の島「川中島」と呼んでいる。謙信との決戦の拠点として築城された海津城はその千曲川に面している。上杉軍は海津城の背後1.5kmの妻女山に陣構をこしらえにらみ合いが続いていた。「兵は勝つことを貴ぶ。久しき(長期戦)を貴ばず」。
 『孫子』の兵法を軍師:山本勘助が「キツツキ戦法」として進言した。「キツツキは木の虫を食べるときに、くちばしを穴に突っ込んで直接食べるわけではない。まず、穴の反対側をつつくんです。虫は驚いて穴から出てきます。それを食べるんですよ」。武田信玄のGOサインが出た。
 軍勢を二手に分け、本隊を川中島の八幡原に置き、別働隊が妻女山の裏から夜襲を仕掛ける。混乱した上杉軍は信玄が本陣を敷く八幡原に退いてくる。挟み撃ちによる一網打尽、止めを刺すという作戦である。

<川中島古戦場跡、峰を背景に秋の訪れを待ちかねたススキが白く煙っている>

 時に1561(永禄4)年9月9日、飯富ら1万2千が妻女山に夜襲を仕掛け、本隊8千は勝ち鬨の声を待った。しかし、待てど暮らせど寂として騎馬も鉄砲も甲冑の響きも起こらない。明けの明星がぼんやりと鈍く瞬くばかりである。
 その時すでに勘助の「キツツキ戦法」を看破した謙信はいち早く妻女山の陣を破棄して全軍が八幡原に展開していたのである。
 深い川霧が立ちこめる中、朝の陽光が辺りを照らし出し、霧が晴れ始めた。驚愕の世界が展開している。毘!毘!毘!『車懸の戦法』をとる上杉軍が武田軍を蹴散らしながら信玄の本陣に急迫している。
「信繁様、ご最期!」「虎定様も討死!」「山本勘助様、憤死!」悲報を告げる物見の兵もその場でがっくりと倒れる。
 信玄が軍配を握って立ち上がったその時、萌黄(もえぎ)色の陣羽織を身にまとい、月毛色の馬にまたがった騎馬武者が愛刀・小豆長光(あずきおさみつ)を振りかざして猛進してきた。上杉謙信である。
 信玄の眼前で鋭く長光の刃が弧を描いた。ガッ!流線を軍配で受け止めたが、腕から真っ赤な血しぶきが上がった。騎馬武者は馬を翻すと、間髪入れず振り向きざまに二太刀目を繰り出す。バシッ!今度は信玄、その切っ先を軍配でたたき払った。信玄は腕と肩の二か所に傷を負い、軍配には七か所の傷があったという。三太刀七太刀の謙信と信玄の一騎討の様子である。

<危うし、信玄!仏教に深く帰依した謙信の長光の刃を軍配で受け止める>

 形勢の立て直しができたのは巳の刻(午前十時頃)である。高坂ら別働隊一万二千がようやく八幡原に戻って参戦してからである。上杉軍の死者は三千五百人、武田軍の死者は四千五百人と伝えられている。八幡原の川中島合戦場跡には首塚にがあり激戦で踏みつぶされた雑兵たちの悲しみの呻きが絶える事はない。彼等の像が建つ事は金輪際ない。歴史を動かす民衆が歴史の表に立つことはない。

<甲州の風林火山の里は滅亡の儚さを持っているが、ここは戦いの里である。>