年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

古代から悠久の彼方に(4)

2007-12-22 | フォトエッセイ&短歌
 神代植物公園の前身は街路樹の苗場であったが、もう一つ歴史をさかのぼってみよう。昭和15年、内務省は東京の爆発的な人口増加に対応すべく都市環境・防災構造の観点から総合緑地(防災緑地)設置を進める。しかし、翌年には太平洋戦争が開始される。政府は戦時における都市空襲による戦災被害に備えたのだ。ナルホドナ~
 結果的にこの政策は別の意味で有効性を持った。戦局が悪化するなか東京は旧地主や小作農に防災緑地を貸与し穀物や野菜を生産させた。終戦後GHQによってこの貸与が不在地主(東京府)とみなされ農地解放の対象になって思わぬ自作農が創設された。
 神代植物公園に隣接する「深大寺」は関東で浅草の浅草寺に次ぐ古刹として知られる。江戸時代には元三大師堂(がんさんだいしどう)が厄除け(やくよけ)の尊像として大変な賑わいを見せている。

<深大寺の名称は,水神の深沙大王(じんじゃだいおう)に由来:深大寺山門>

 深大寺は水神様に由来しているといわれるように、ハケ:段丘崖(だんきゅうがい)からコンコンと湧き水が溢れかえって小川をつくっている。起伏の関係で野川とは逆に東から西に流れているので逆川(さかさがわ)と呼ばれる。深大寺水車館には水車が復元されている。小麦の製粉、玄米の精白用といして利用されてされている。

<コットンコットンいかにも長閑である。水の力をキネに伝える仕組みが分かる>

 文全協の「深大寺の遺跡」研修会も「深大寺城跡」を最後に終わる。水車小屋の真後ろに標高50mの丘陵が突き出している。これが深大寺城跡(国史跡)で、連郭式の中世城郭である。
 1537年、上杉朝定(うえすぎともさだ)は小田原の北条氏綱(ほうじょううじつな)に江戸城を奪われその奪回のため戦略的拠点に古城を利用して築城した山城である。しかし、上杉は本拠地の川越城を攻め抜かれ深大寺城は無用となり廃城。城としては情けない生涯であったが、上杉朝定も北条氏康に敗れている。種子島に火縄銃が伝わった頃の話である。

<上杉・北条の国盗り物語の夢の跡。土塁が確認され城址公園として復元>

<つるべ落としの夕刻。深大寺の名物「蕎麦処」にも灯が入り一献傾けて終了>