年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

松代-地下御座所

2007-11-24 | フォトエッセイ&短歌
 1864(元治元)年7月11日、京都木屋町に惨殺体が転がっていた。翌日の張り紙。『この者西洋学を唱え交易開港の説を主張し、奸賊会津・彦根とくんで天皇を奪おうとした。大逆無道だから天誅を加えた』。公武合体の流れに危機感を持った尊攘派のテロの刃に倒れた佐久間象山の最期であった。
 松代藩士、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰ら門弟数千人と言うから象山(しょうざん)先生並みの経世家ではなかった。また自然科学への挑戦は果敢で、(電信機を作り、電線を架設してダニエル電池を使用して通信の実験に成功)日本電信発祥の地となっている。
 この時期多くの逸材がテロによって倒れたが殊のほか惜しい人材を失っている。松代は真田一族の街ではあるが<象山神社><象山資料館>と佐久間象山の街でもある。

<西洋流の兵学を学び開国論を主張。望遠鏡を制作し天体観測、写真機等も>

 松代大本営地下壕は3地区に別れている。すでに見学した象山地下壕、地震観測所が置かれている舞鶴山地下壕、崩壊はげしく閉ざされた皆神山地下壕である。
 舞鶴山は宮内省が入る予定で天皇御座所や皇后御座所などが建設された場所である。すでに各都市の空爆はやられ放題の中の極秘の宮中移転である。象山地下壕に続く舞鶴山地下壕の計画に地元の混乱大きく記録は次のように留めている。
 『騒動が起きたのは1945(昭和20)年4月3日、国民学校の作法室に村の戸主130名が呼び出された。加藤少佐は挨拶もしないで開口一番「本日は天皇の命により、皆さんにお願いに上がった。家財をまとめて家を開けて立ち退いてもらいたい。理由は軍の秘密事項に属するので言えない…」。早い家は翌日に軍の作業員が家に押しかけて来て瓦をはぎ始めた……』
 ポツダム宣言を黙殺し「国体護持」を最大唯一の念願とした軍部はなお戦争継続を主張し地下壕を掘り進めて行った。

<現在、気象庁精密地震観測室。舞鶴山地下壕鉄筋コンクリート造半地下式>

 一部見学できるようになっている。爆撃対策のため、建物の天井や壁は非常に厚い。 天皇・皇后御座所が左右に振り分けられ中央には幅1、5M位のかまぼこ型の狭い急な階段が下っている。淀んだ暗い闇の世界を伺うようだが、これから先には進めない。警戒警報が鳴るとこの地下壕に避難することになっていたそうである。
展示室には完成していた地下御殿の豪華な部屋のパネルが展示されている。