年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

松代-大本営地下壕

2007-11-16 | フォトエッセイ&短歌
 すでに62年、焼夷弾とか竹槍訓練とか赤紙とかは解説がないとイメージすら思い浮かばない時代になっている。定年退職者が世に溢れ高齢者社会に突入、危機を迎えた老人大国日本だと。急がれる3大対策で増税は必至か……赤字対策・老人対策・防衛対策!何をヌカスか、戦後の政治や行政の怠慢を高齢者の増加にすり替えるとは。
 それにしても戦後60年を経過一つの峠を越えようとしている。「南京大虐殺」「沖縄戦での集団自決」「従軍慰安婦」「交戦権の放棄」など当たり前に学習してきた事に疑義が呈され、とうとう教科書から記述が消えてしまった。
 そんな折り戦争の事実を明らかにし風化させない様々な市民運動が立ち上げられた。「戦争遺跡」を発掘し、戦争の被害・加害を戦争関連の物的証拠で語り継いで行くのもその一つである。「遺跡研究会」に便乗して太平洋戦争の遺跡:信州松代大本営象山地下壕に赴く事にした。
   
   <地下壕近くで、カッと開いたザクロの表情がいい。口中に凍みる。>

 松代はゆったりと流れる千曲川のほとり、真田十万石の城下町で街並みなどが萌え始めた紅葉の中に佇んでいる。城下町特有の武家屋敷の厳格さが街を落ち着かせている。
 その街に一発のダイナマイトが轟いたのは1944(昭和19)年11月11日11時である。歴史的な大事業をイイ月イイ日イイ時刻としたのだそうだ。こうして「松代大本営地下壕」の突貫工事が翌年の8月15日まで277日間、掘って掘って掘りまくられたのである。
 大本営はとは何か。大日本帝国憲法「天皇は陸海軍を統帥する」を具体化するために「大本営条例」を制定し「戦争が起こった時は天皇の下に陸海軍の作戦を指揮するために宮中に大本営を設け戦争を遂行する」いわゆる御前会議である。「日清戦争」では広島に大本営が移され作戦が決定した。

<地下壕公開口。狭く傾斜しているのは正規の入口ではなくズリ(掘削の岩石)を搬出するための補助口。傾斜は設計ミス。壕内はトラックが走れる広さである>

 1944(昭和19)年2月、トラック島が潰滅し絶対防衛圏が破られた。文字通り竹槍で戦闘爆撃機を迎え撃つ事になる。そのために大本営・政府機関・天皇の御座所・賢所(かしこどころ・三種の神器の奉納所)を連合軍から守って一億玉砕の緊急体制をとる事になったのだ。
 信州松代に政府機関を移転する遷都である。地中の首都:松代は幸いな事に幻に終わったのだが。

<総延長5850メートルで碁盤の目のように掘ってある。日本放送協会・中央電話局・政府機関などの割り振りも進んでいた。軍部は本気で玉砕戦をやらせるつもりだった>



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