年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

松代-地下壕内

2007-11-20 | フォトエッセイ&短歌
 新潟市に河口を持つ信濃川は367キロという日本最大の長さの川であるが、長野県の国境を越えると千曲川と名前を変える。山岳県の長野の都市はこの千曲川流域に展開する小さな盆地上に形成されている。河川が経済の動脈であった事が分かる。そのため昔から烈しい争奪戦が展開されてきた。信玄VS謙信の『川中島の合戦』は特に有名である。
 長野市と川を挟んで向かい合っている松代も松代城の城下町で千曲川の畔に築城されている。武家屋敷が多く落ち着いた街並みである。

<屋敷の縁側から藁葺き屋根と塀越にようやく色づき始めた紅葉が覗かれる>

 地下壕と言われているが実際は山の麓から掘り抜いたトンネルというイメージである。見学可能な場所は500Mであるが、その規模の大さには度肝を抜かされる。軍部は狂気か本気か本土での地上戦をやるつもりだったのだ。
 中学生が平和学習の一環として地元ガイドの説明を息を殺して聴いていた。『~1944年の11月ですよ。工事が始まったの。都市は無差別爆撃くらって多くの人が被害に苦しむ。武器も弾薬、戦闘機も戦艦もない丸腰になっていたんですよ。どうしたと思います、ガタガタの飛行機引っ張ってきて体当たり攻撃、神風特別攻撃隊が始められたんです。そんな時期に大本営を移して闘ういう計画が実施されたんです。沖縄は実際に洞窟に軍司令部を移して闘ったんです。どれほど悲惨な地上戦になったか御存知でしょう。原爆が落とされました。でも軍部は戦争終結を全く考えませんでした。皆さん何故だと思いますか、どう考えたらいいのでしょうか~…』

<ナルホド。沖縄での地上戦の話に説得力あった。頑張れ若者たち!と思う>

 岩石に残る削岩用ロット跡やズリを運んだトロッコの枕木の跡など当時の工事の様子が多少分かる所もある。パンフには「延べ300万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され一日3交代徹夜で工事が進められた。食糧事情が悪く、工法も旧式な人界作戦を強いられ、多くの犠牲者を出したいわれる」。
 朝鮮人労働者は定説6500人位といわれている。壕入口に「松代大本営朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑」が平成7年に様ざま反対やイヤガセを乗り越えてようやく建設されたという。
   
<歴史を語る火薬を埋め込む穴やロット跡、水平基準の測量点などが見られる>
<県など行政の保存対策が進まず本格的な全面系統的調査はこれからである>