年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

風林火山の里(2)

2007-11-03 | フォトエッセイ&短歌
 積翠寺温泉に来て要害城に登らない事はなかろうと「登りたくない抵抗勢力」を巻き込んでの要害山。すでに1/2世紀をとうに生きてきた、加藤武が演じる諸角虎定の年齢、登城するのも楽ではない。濃い緑の木々の中に幽かに色づく雑木が混じっている。
 本丸のあった頂上は平らに削られ草が揺らぎ、信玄誕生の地の碑が建っている。市川亀次郎はここで生まれたのか。大きな腹をした大井夫人も登るのに大儀な事であったろうと夫・仲代達也と心を触れる事が無かった風吹ジュンを思い起こす。<大河ドラマ見てないとわかんネ>

<要害城本丸の最後の石段>

 ハテ?信虎夫人(大井氏)が嫡子晴信(信玄)を生んだのは、居城:躑躅ヶ崎館(つつじがさきのやかた)だか、山麓の積翠寺(せきすいじ)ではなかったのか。マアたいした事ではないんだが…
 戦国の世でも最も攻防激しい1520(大永元)年頃、石和から躑躅ヶ崎に館を構えた武田信虎は<詰城(つめのしろ)>として要害山に城を築いた。<詰の城>とは戦況不利となり篭城する目的で構築された山城のことである。最期の一族の自害の城とでもいうべきか。
 大永元年(1521)に今川氏の部将福島正成が甲斐に侵入し、躑躅ヶ崎館が危険に陥ったために信虎は身重の大井夫人を要害城に移し、ここで信玄が誕生したことになっている。実際は産湯として「積翠寺温泉」が使われたというから出産は山麓の「積翠寺温泉」であろうか。
 その後、武田家は信虎・信玄と危機に陥る事はなくあの堅固な要害城を必要とする事はなかった。

<躑躅ヶ崎館の門から城下を望む。かって武田24将の武家屋敷が左右に並ぶ>

 信玄の子勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れたのが1575年。足軽鉄砲隊の火縄銃に最強の甲州騎馬軍が敗北し戦国時代の戦術転換が問われた歴史的な合戦であった。勝頼は甲府を捨て1581(天正九)年、韮崎に新府城を築いて居を移した。その時に躑躅ヶ崎館の一木一草までも武将達の反対を押し切って破壊してしまった。現在の武田神社はその館跡である。家臣達との亀裂が決定的になり風林火山の甲州武田軍は滅亡して行く。

<信玄が産湯をつかったといわれる積翠寺山門。元祖信玄の隠し湯>