年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

偽満州国-7

2007-07-12 | フォトエッセイ&短歌
你好<ニハオ>東北紀行
 満州は「日本の生命線!」を確実化する戦略として『満蒙問題解決方策大綱』がある。第一段階で親日政権の樹立、第二段階で独立国家の樹立、第三段階で領有(日本に併合)と段階を踏んで植民地とするものであった。しかし、反日・抗日運動が激化し親日政権の誕生が難しくなると関東軍は「独立満蒙国家」建設を急いだ。
 清朝復活を夢想していたラストエンペラー:宣統帝溥儀(ふぎ)を担ぎ出して満州国の建国を宣言したのだ。1932年3月1日、王道楽土・五族協和をスローガンにした<日本人による中央独裁主義>の完全な傀儡(かいらい)の誕生である。首都・新京(現:長春)の300万人の都市計画が開始された。
 こんな話がある。満人の給与が低いという不満に<日本人は満人より能力も生活水準も高く、米を食わなければならない。満人は高梁を食べても暮らしていける。わざわざ日本から来ている日本人に少しでも余計に取って下さいというのが本当の親善というものだ。君らは満州の歴史を知っているのか。満州は日本人が血と引き替えにとったものだ。ロシア人から奪い返したものだ(駒井国務院長官)>


  偽満皇宮博物院の勤民楼<詔勅発布や外国使節との謁見が行われた>
 満州国でっち上げの張本人・関東軍司令部は中国共産党吉林省委員会、満州国の最高行政機関は吉林大学基礎医学院、満州国財政部は吉林大学大学病院、満州国最高検察庁は人民解放軍医院として当時の偉容を誇って使用されている建造物が少なくない。
 満州国皇帝:愛親覚羅溥儀の宮殿は「偽満皇宮博物院」として保存され、見学出来るようになっている。ちなみに(満州・満州国という語は使われていない。使う場合には必ず【偽】を頭につける)


 1945年8月9日、ソ連軍174万が満州に雪崩れ込んできた。翌9日関東軍は撤退を開始。<山田大将が溥儀に遷都を勧告しているところ> 
最終的に溥儀は日本への亡命を希望したが、一瞬遅れをとりソ連軍に拘束されハバロフスクの収容所に放り込まれた。満州国皇帝の淡い夢は13年間でついえてしまった。それは同時に日本ファシストの崩壊でもあった。

 
 当時のままの正門で中庭には「九.一八 忘れることなかれ」の碑がある。しかし、門外の脇ではオバサン達が終日タバコを吹かしながらカードを捲っている。中国の特段の風景ではない。