年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

臨陣格殺-6

2007-07-01 | フォトエッセイ&短歌
你好<ニハオ>東北紀行
  1932年、第1次満蒙開拓団が満州(吉林省)に到着した年である。一行は小銃・機関銃・迫撃砲などの重装備の武装移民である。原野を開拓するなどというものではない。現地の農民達を武力で蹴散らし、タダ同然の値で買い上げるなど耕作地や放牧地など村ごと後には郡・県ごと奪っていった。当然、抵抗する農民もいる(土龍山事件:関東軍と数ヶ月戦うも破れ5千名が殺害される)わけで、「臨陣格殺」(反日と判断したらその場で殺害する権限)等の悪法を定めた。満州開拓の実態である。
 しかし、恐慌により困窮した悲惨な生活に苦しむ農民達は「王道楽土」の夢に踊って満州へと旅立った。例えば長野県大日向村では1/2にあたる350家族が家・墓までも処分して集団移住している。結局、27万人が満蒙開拓団として満州に渡った。「中国残留日本人孤児」問題の原点で未だ解決されずに見捨てられている。

 
 長春に向かう。曇天の空からは降りしきる雨滴を切り裂くようにT547号車は驀進する。走れども走れどもカーブする事はなく鉄路は一点に結ばれ消え去って行く。
 満州の地平線を臨む事は出来なかったが、延々と広がる田んぼでは人力による「田植え」が行われていた。日本の農作業と変わることはないが、その広大な面積には圧倒される。いつになったら田植えが終わるのだろうか…
  
             
 4人掛け1ボックスシートである。後ろにはハルビンに帰省するという人民解放軍の退役軍人夫妻が座っていた。ガッシリした体躯、日焼けした顔、歴戦の風貌である。「ワシは空軍で戦闘機に乗って国民党と戦って蒋介石を台湾に閉じこめたよ。次は朝鮮戦争でアメリカ軍との激戦だ。戦闘機だったから凄かった。良く生き延びてきた。戦争は懲り懲り、、平和な暮らしがいい」


 人民公社はどうなってるのか。20軒前後の日干し煉瓦の集落を指さして「あれだよ、中国人を追い出して日本の開拓団が家を建てた所だよ。トウモロコシやコーリャンを作って貧しかったが今は米を生産しているので豊になった。田畑の売買も自由に出来る」…