年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

電影 夢の果て-8

2007-07-22 | フォトエッセイ&短歌
 你好<ニハオ>東北紀行

 第一次世界大戦は「大正新時代の天佑」であると参戦した日本は戦争景気に燃え上がったが、終結と共に欧米の商品がアジア市場に再登場してきた。綿糸・生糸の相場は大暴落して戦後恐慌が始まり、企業の倒産・合理化・工場閉鎖が相次ぎ労働者は塗炭の苦しみに突き落とされた。
 日本労働総同盟などが結成され労働争議は3000件を越え戦前最高の高揚期を迎えた。労働組合、農民組合、無産政党、社会主義者の運動も活発に行われた。連合国の民主主義の提唱・ロシア革命や米騒動などを背景に1920年には最初のメーデーが上野公園で開催されている。
 このような国内外の政治的緊張感の漂う1923年9月、マグニチュード7.9の関東大震災が起こった。「社会主義者が朝鮮人を扇動して反乱を起こしている」「井戸に毒を投げ入れた」との流言の中で憲兵大尉:甘粕正彦らが無政府主義者の大杉栄・妻の伊藤野枝・甥の少年を東京憲兵隊本部で殺害した。甘粕は軍法会議にかけられ懲役10年の判決を受けた。治安維持法が成立するのはその2年後である。


 長春電影制片廠正面玄関:満映時代の遺物は一片もない。管理棟のみ。

 軍籍を剥奪された甘粕は3年で出所すると渡仏しそのまま満州へ渡り満州国建国に暗躍し民生部警務司長などを経て「満州は昼間は関東軍が、夜は甘粕が支配する」と言われるように絶大な権勢を誇った。
その彼が満映(株式会社満州映画協会)の理事長に就任するのが1939年である。満映は当時の政治上の必要性から生まれた「満州国」と「満鉄」の資本で成り立つ国策会社である。『建国の正当性』や『満州や中国の記録』や『日本軍(関東軍)の中国大陸における「聖戦」』などの映画を撮るなど関東軍の宣伝舞台であった。


 玄関の裏側:二階中央の部屋が甘粕正彦の服毒の部屋

 「日満親善」「王道楽土」「五族協和」を政治的に宣伝する映画だから、芸術性はもとより評価も良くない。歌う女優:李香蘭( 山口淑子)が登場してからは注目されるようになったという。『支那の夜』『蘇州夜曲』など満州の広大な大平原をバックにエキゾチックな李香蘭が日本青年とささやかな恋を語らう。流れるような美しい彼女の歌声… スクリーンに魅せつけられた内地の日本人は我も我もと満州に渡っていったという。
 しかし<日本の侵略と統治に抵抗する中国東北地方の人々に対する日本統治者の武力による鎮圧と思想宣撫を描いており、国策映画の代表作>と中国人関係者からは手厳しく論評されている。
 敗戦の混乱で極限を迎えた1945年8月20日、ソ連軍の長春占領の中で甘粕は青酸カリで服毒自殺をはかった。「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」辞世の句と伝えられるが定かではない。


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