年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

サテ 元祖貝塚は!

2007-07-17 | フォトエッセイ&短歌
 『貝塚は人びとが食べた貝などのゴミ捨て場で、貝殻・人骨・獣の骨などの他に土器・石器・骨角器などの人工遺物も出土し、その時代の生活や自然環境を復元する資料となっている。日本の近代科学しての考古学はアメリカの動物学者E・S・モース博士の大森貝塚の発掘調査に始まる』と殆どの歴史の教科書に紹介されている一文である。
 
 1877年(明治10年)6月、蒸気船で横浜に上陸したエドワード・シルベスター・モースは汽車で横浜から東京に向かった。途中、大森停車場を発車してすぐの線路の切り通しの崖に貝殻が積み重なっているのを車窓から発見した。<大森貝塚>の発見である。東京大学理学部教授に任じられたモースは10月に発掘調査を実施し報告書を作成している。
 これは日本最初の科学的な方法にもとづいた調査で日本列島における石器時代の存在を立証するなど画期的な成果を上げた。そのために、<1877年の大森貝塚>をもって日本考古学の発祥の時と場所になっている。因みにモースは前世界を4区分に時代区分して各時代を説明している。(第一粗石世界)=打製石器時代、(第二磨石世界)=磨製石器時代、(第三銅世界)=青銅器時代、(第四鉄世界)=鉄器時代。恐るべき卓見である。
 1877年といえば新政府の土台は未だユラユラで西郷隆盛を中心に不平士族が大規模反乱を起こして西南戦争を戦っていた時である。

       
 土器を調べるモースの銅像。土器の表面にコードのマークがついてるぞ、報告書に(Cord-markedpottery)と記述する。それから10年、白井光太郎はこれを<縄紋土器>と訳す。縄文時代、縄文土器の名称の事始めである。モースは政府に招かれた「お雇い外国人」で約二年間だけ日本に滞在した。 

            
 
 発見から50年を記念して関係者の手によって<状況からここだ>によって「大森貝塚碑」↑記(品川区大井6丁目)が建立された。しかし、モースに師事し発掘を直接に行った佐々木忠次郎のコッチだ<証言>によって「大森貝墟碑」↓記(大田区山王1丁目)を建立した。
 すでに場所をめぐっては意見の違いがあって攻防激しいものがあったが、記念碑が2ヶ所に建ったのだから「元祖大森貝塚騒動」が再熱した。


 “Shell Mounds of Omori”(報告書)には貝塚の住所や地図が記載されていなかったのだ。[状況証拠か証言か]に一定の方向が出てきたのは1977年である。東京府が発掘地の地主に賠償金50円を払ったという記録が見つかったのだ。それは品川区大井6丁目あたりである。モースの<大森貝塚>は大森ではなく大井だったのだ…。しかしソコハマア、両方の碑とも「国指定史跡 大森貝塚」として国の史跡に指定されている。(文化財全国協:見学会にて)