年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

伊賀越えの危機

2007-07-05 | フォトエッセイ&短歌
江戸散歩-1〔満州は肩が凝るから、楽しい話も入れて下さい。それじゃマア〕
 
 天正10年6月2日、日本史上最も有名なクーデターとされる<本能寺の変>で天下布武の夢を断ち切られた織田信長は紅蓮の炎の中で自刃した。本能寺の変があったその日、家康徳川は信長へ会いに行くために近臣30人の丸腰状態で堺にいた。次のターゲットは家康である。
 明智勢力下となった京・大坂の地で討たれるか、自決か、脱出か。イチかバチか、主要街道を捨て間道を抜けて領国・三河への脱出を決行する事になった。家康の生涯で最大の危機と著される<伊賀越えの危機>である。
 岡崎城までは210キロ。一行の前には家康の首を狙う、落ち武者狩り、山賊、一揆が待ちかまえている。あらゆる懐柔手段を労して決死の逃避行を進めながらやがて伊賀、甲賀の土豪・忍者・農民・商人などを味方につけることに成功する。そして3日間の悪戦苦闘の末に岡崎城下にたどり着く。 この時に情報探索・陽動謀略・機微迅速をものにして家康を守護したのが伊賀の忍者集団であった言われる。



 明智光秀を討った秀吉が天下統一を進めていくなか、危機を脱した家康も三河の片田舎で勢力を強大化し「小牧・長久手の戦い」では秀吉軍を圧倒し和睦に持ち込んだ。秀吉にとっては何とも目障りなタヌキ親爺だったのだろう。伊達政宗を服属させ天下統一を宣言した翌月に葦の生い茂る江戸に追いやってしまった。
 家康の本格的な城づくり・街づくりが始まるのは秀吉死後の1603年、征夷大将軍:江戸幕府開設後である。

  *幕府開設から4世紀 空に伸びる江戸の現在:東京オフイス街

 <伊賀越え>に従っていたメンバーに服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)の名が見える。伊賀者・半三保長の息子で彼の支配下の忍者達が家康の危機を救ったのだ。感服した家康は伊賀同心(忍者集団)として200名を召しだし、与力30騎とともに服部半蔵の支配下に組み入れた。
 以降、半蔵指揮官はこの忍者集団を率いて数々の戦闘を繰り広げ戦功を重ねて「鬼半蔵」と称され、8000石を領し徳川16将の一人に列せられたている。

     

 やがて幕府は安定期を迎えるが、江戸城近辺の警備を担当する事になる服部家(通称:半蔵)は西の丸の門外に伊賀同心の頭目として屋敷を与えられた。いつの頃からかその門が《半蔵門》と呼ばれることになる。将軍が非常時に脱出するための門だったともいわれる。現在でもなかなか警備は堅固で半蔵もスパイダーマンに変身しないと突破出来まい。